超進化した新型「GRヤリス」4月8日発売! 豊田章男氏が語る「誕生秘話」 「トヨタのスポーツ4WD」とは
TOYOTA GAZOO Racingは、進化した新型「GRヤリス」を2024年4月8日に発売します。今だから話せる「GRヤリス誕生秘話」を開発責任者の齋藤尚彦氏とモリゾウこと豊田章男氏に語ってもらいました。
GRヤリスについて「そろそろ喋ってもいいかな」と言う裏話を!
トヨタの「モータースポーツを起点としたもっといいクルマづくり」を最も愚直に体現させたモデルがGRヤリスでしょう。
その進化型が4月8日に発売開始されます。
今回はGRヤリスについて「そろそろ喋ってもいいかな」と言う裏話を、当事者の証言を交えてお伝えしていきたいと思います。
ちなみに筆者は1月下旬にモンテカルロラリーの取材に行ってきました。
レモニアルスタートが行なわれるカジノ前で、進化型をベースにした2台の特別仕様車「セバスチャン・オジェエディション」、「カッレ・ロバンペラエディション」がお披露目。更にカスタマー向けのラリーマシンである「GRヤリス Rally2」が初参戦しました。
2017年のWRC復帰から7年、このモンテカルロでRally1、Rally2、そして量産モデルのGRヤリス“ファミリー”が勢ぞろいしたシーンを見て、このクルマを登場前から追いかけてきた筆者は「こんな光景を見ることができるようになるとは!」と、何とも言えない感慨深さを感じました。
2015年、当時社長だった豊田章男氏はWRC(世界ラリー選手権)への復帰を宣言。実はこの時、豊田氏の頭の中にはもう一つのプロジェクトがありました。
それは「WRCマシンの血を受け継いだスポーツ4WDを創る」でした。
と言っても、単なる言いだしっぺで後は現場にお任せではなく、プロジェクトの一員として色濃く関わっているのは周知の事実。
開発責任者の齋藤尚彦氏は、「モリゾウさんはマスタードライバーとしてだけでなく、スポーツ4WDにすることの決断やデザイン、更にはパッケージまで具体的な指示をいただきました。言うなれば、チーフエンジニアはモリゾウさんであり、我々はその想いを具体化させる実践部隊なのです」と語っています。
そもそも、豊田氏はなぜこのようなクルマを作ろうと考えたのでしょうか。豊田氏に直接聞いてみました。
「トヨタは古くから式年遷宮の如く、20年に1度スポーツカーを作ってきました。
1960年代には2000GTやヨタハチ、その20年後との1980年代にはスープラ、レビン(トレノ)、MR-S(MR2)、セリカなどが世に出ました。
その後、20年後の2000年代にも出るはずでしたが、当時のトヨタは『儲かるクルマ、売れるクルマ』が優先で出すことができませんでした。
しかし、LFAで流れを作り、スバルの力を借りて86、BMWの力を借りてスープラを出すことができました。
しかし、トヨタの中に『ゼロからトヨタだけの力でスポーツカーを復活させたい』と言う気持ちを持つ人がたくさんいましたが、言えない状況でした。
それをモリゾウと言うマスタードライバーが生まれた事、更には86/スープラをお客様が応援してくれた事で、『あっ、やってもいいんだ』と言う気になり始めた事が一番大きいです。
普通の頭で考えれば『売れるわけがない』で却下ですが、お客様が欲しいモノが提供できる会社にトヨタが少し変わってきたと言う事でしょう」
GRヤリスの開発がスタートしたのは2016年の年末、齋藤氏は豊田氏から直接「やるぞ!」と明確に言われたそうです。
「当時はTCカンパニーでノーマルのヤリスの開発をしていましたが、『なぜ、自分何なんだろう??』と言うのが素直な気持ちでした」。
ちなみに筆者は以前から齋藤氏を良く知っていますが、当時の印象はいわゆる一般的なトヨタマンとは真逆で、チャラい上にヤンチャ坊主。
ただ、社内に自動車部を立ち上げクルマづくりやレース参戦を行なうなど、クルマに対する熱量は人一倍高かったのも事実です。
トヨタマンの中でも異端児でなければ、従来のトヨタの枠を超えたクルマは作れない豊田氏はそう考えたのでしょう。
「声をかけると凄いクルマ好きが集結しました。このようなクルマなので色々な部署から各部の部長がそういうメンバーを推してくれたのもあると思います。
そういう意味では、“当初”はプレッシャーより新しいモノに挑戦できる歓びのほうが大きかったです。
実はこういう事は自動車会社に勤めていてもなかなか経験できない事。普通は大抵シナリオの大筋は決まっていますから」(齋藤氏)。
とは言うものの、トヨタのスポーツ4WDの技術・技能は1999年に生産終了したセリカGT-FOURで途絶えていたため、全てはゼロスタートだったと言います。
「スポーツ4WDの復活と言うと聞こえはいいですが、社内ではその技術・技能はありませんでした。
そこで失われた20年を最短で取り戻すためには、モータースポーツから学ぶ開発を選択。
そこで強いクルマ作りは当時WRカーの開発を行なっていたTMR(トミ・マキネン・レーシング)、市販車では考えられない評価はレーシングドライバー/ラリードライバーの力を借りています」
この話を聞き、筆者はGRヤリス登場の3年前となる2017年、フィンランドラリー取材後にTMRを訪れた時のことを思い出しました。
今だから言えますが、ここで齋藤氏とバッタリ遭遇。この時、「齋藤さんは素のヤリスの開発をしてると聞いてますけど、なぜいるの?」と聞こうと思いましたが、普段ならざっくばらんに会話をしてくれる齋藤氏が避けるかのように立ち去ろうとしている姿を見て、「なるほどね!!」と確信。
齋藤氏は「あの時はまだクルマの影も形もない状況で、そんなタイミングで1番会ってはいけない場所で、1番会ってはいけない人に見られてしまい、本当に焦りました」と教えてくれました。
その後、先代ヴィッツ(5ドア)にGRヤリスのパワートレインや4WDシステムをドッキングさせた試作1号車が完成。
ただ、このモデルが箸にも棒にもならない代物で、プロドライバーですらコースに留まることが難しいモデルだったと言います。
「今だから言えますが、じゃじゃ馬を超えて暴れ馬のようなクルマでした。
エンジンもミッションも4WDシステムも全部ダメ。モリゾウさんは直接我々には言いませんでしたが、『スバルにお願いしたほうがいいのでは?』とホンキで考えた事もあったそうです。
トヨタは今までは『クルマ側でこれがベスト』と言う作り方でしたが、それでは通用せず。
そんな中、モリゾウさんに叩き込まれたのは『ドライバーコンシャス』です。
それを突き詰める事こそが、我々の開発における最大のミッションでした。
その本質とはクルマと向き合い、現場でモノを見ながら議論、道を走って作ると、開発のやり方を昔に戻すと言う非常にシンプルな物でした」(齋藤氏)
ちなみにこの記念すべき試作1号車は、シッカリと保存されています。更に3ドアの専用ボディ採用にも紆余曲折があったそうです。
「当初はノーマルのヤリスと共通にしてファミリーとしてホモロゲを取ろうと思っていました。
細かい部品まで全てリストにして、WRCチームと『これはできる』、『これはできない』とやってみるも、結局は中途半端。
モリゾウさんには『レーシングカーから市販車を作ると言っているのに、また市販車からやっているのか!』、『市販車ベースに都合でやるな』と怒られました」(齋藤氏)
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