東京の謎道路名「人見街道」って一体何だ? 渋滞情報でよく聞くけど…実は「意外な歴史」と「納得の渋滞理由」があった
東京23区から西に伸びる道路で「人見街道」というものがあります。変わった文字面の道路名ですが、なぜこんな名前になったのでしょうか。また、いつからあるのでしょうか。
謎の道路名 その由来は
東京23区から西に伸びる道路で「人見街道」というものがあります。
変わった文字面の道路名ですが、なぜこんな名前になったのでしょうか。また、いつからあるのでしょうか。

人見街道は、杉並区の浜田山の「井の頭通り」から西へ分岐し、久我山、三鷹市役所、武蔵の森公園、東京外大を経て、府中市の自衛隊前で「新小金井街道」に接続します。東府中駅の北側です。
基本的に2車線の生活道路で、ヘロヘロの裏道のような風情も残ります。道路というより「ルート」といった感じで、久我山~三鷹台~市役所はカクカクと右左折が続きます。
三鷹市内からはすぐ真南に「東八道路」が開通。4車線の立派な甲州街道バイパスで、将来は日野・八王子方面へ直結予定となっており、国道20号の破滅的混雑な現道に変わる大動脈となりそうです。
それでも杉並~三鷹~調布の貴重かつ古くからの東西道路ということで、今でも人見街道を利用するクルマは多く、基本的にいつも大渋滞していて、ラジオの交通情報でもおなじみです。
武蔵野台地の地形の影響で、東京中西部はどの道路も「左上向き」になっています。そんななか人見街道は貴重な「左下向き」のルートなため、どうしても交通集中してしまうのです。
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「人見街道」の歴史は意外と浅く、1984年に2回目(五輪以来)の「東京都通称道路」の命名が行われた時に、初めて誕生した道路名です。
「人見」というのは、終点付近にある府中市の旧地名です。多磨霊園の南西側、標高80mの「浅間山」のふもとに、明治初めまで「人見村」という集落がありました。
ここは室町時代初期の南北朝騒乱時、関東における戦場のひとつにもなりました。幕府の足利尊氏が内紛処理のために京を出て鎌倉にいた際、南朝の新田軍がこれを攻撃。追い出された尊氏は鎌倉奪還をかけ横浜方面から反撃に出て、ここでも激突したのです。
古来から関西~群馬~府中をつないだ「東山道」があったように、府中を軸とした南北道路が主要ネットワークでした。そのため、どの時代でも進軍ルートがこのあたりだったのです。
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さて、「人見街道」という名前自体はごく最近のこととはいえ、このルートが古来から使われていたのは事実です。
そもそも律令制の時代から、武蔵国府中から千葉方面(下総国)へ行く街道ルート(府中~天沼~王子~)があり、その名残がこのあたりは比較的明確に残っていたのです。
大通りの存在感とは無縁のクネクネ生活道路でありながら、東京都が「人見街道」という通称道路を命名した背景には、この深い歴史と、今日まで続く高い交通需要が反映されているのかもしれません。
何故人見村なのか?
昭和女子大の創設者人見…人見氏と言う人名に由来する物なのか?或いは人見村の住人は古くから山より人の往来を監視してたからなのか?他の理由があるのか?
このくらい調べてから記事にしろよ。別に歴史サイトじゃないけど人見村だって変わった文字面だし、そこまで深堀って調べないと小学生の夏休みの自由研究以下の記事。