即完売! なぜ国産メーカーがアメ車デザイン採用? 話題の光岡「ロックスター」は夢の具現化だった
創業50周年を迎えた光岡自動車が発表した記念モデル「ロックスター」は、アメ車のようなデザインで注目を集めています。楽しさを追求する人に乗ってほしいという「ロックスター」ですが、実は開発当初はまったく違うデザインだったのです。
青春時代にアメリカで憧れたクルマたちへの思いを具現化
光岡自動車は創業50周年を記念したモデル「ロックスター」を発表しました。そのデザインはまさにアメリカ車。そこにはある役員の青春時代の思いがたくさん詰まっていました。
やはり気になるのは、50周年を記念するモデルとして、なぜこのようなアメリカンスタイルのクルマが生まれたのかということでしょう。そこでこの「ロックスター」のキーマンともいえるミツオカ事業部営業企画本部 担当執行役員の渡部 稔さんに話を聞いてみました。
実は光岡自動車は、国内で10番目の乗用車メーカーであるとともに、アメリカ車を輸入販売するBUBUやGMなどのディーラーも展開しているのです。つまり、アメリカ車にも親しみを持っている会社といえるでしょう。この「メーカーとディーラーの“合わせ技”の逸品として、直感的に多くの皆さんに“これはいいじゃないか”といってもらえる商品になったと思います」といいます。
このプロジェクトは、渡部さんのある思いからでした。「いま、私がどんなクルマに乗りたいか、自分自身で何に乗りたいのかというところを突き詰めるところからスタートしたのです」と開発当初を振り返ります。
渡部さんは、大学を卒業してアメリカに4年間ほど生活をしていたそうです。「特にアメリカに憧れて行ったわけでもなく、勉学に勤しんでいたわけでもない。世間でよくいわれる自分探しの旅みたいなものでした。ただ生活をしていくうちに、西海岸の生活に徐々に慣れてきて、自分の体に染み込んでくると、カリフォルニアの生活を満喫している自分がいました」と楽しそうに思い出を語ります。
その時に渡部さんが初めて買ったクルマはフォルクスワーゲンの「ビートル」だったそうです。
「西海岸では街のあちこちで走っている定番のクルマで、当時2000ドルぐらいでした。そんなある日、バイト先の先輩が乗っているポルシェ914に心を奪われてしまったのです。その先輩の話によるとビートルも914も中身は一緒。おまけにその辺に走っているカルマンギアも一緒だよといわれ、非常に衝撃を受けました。今でこそワーゲンポルシェという言葉は知っていますが、その当時は全く知らなくて、それ以来私の心の中にこの2台が離れなくなりました。ちょうど1985年の夏のことでした」。
しかし、渡部さんのもとにそれらのクルマは来ませんでした。「ビートルが2000ドルであったのに対し、カルマンギアが4000ドルから5000ドルくらい。914は8000ドルから1万ドルくらい」と高価だったからです。
「中身は一緒でも見た目は全く別物」というクルマを「ロードスター」ベースで作る
そのような渡部さんの思いもあり、今回の50周年の記念車を作るにあたってデザイナーであるミツオカ事業部開発課課長の青木 孝憲さんにリクエストしたのは、「私が憧れていたカルマンギアを、新型ヒミコと同じマツダロードスター(ND)をベースに描いてもらうということでした。中身は一緒でも見た目は全く別物、つまり、カルマンギアと914、そしてビートルという関係と同じイメージで、50周年記念車を、ヒミコのベースとなったNDロードスターで描いてもらいたかったのです」とのことでした。
青木さんから完成したデザインスケッチを見せられて、渡部さんは「非常に良い出来でしたが、なぜかワクワク感とかときめきが沸き上がってこなかったのです。品がよすぎるというか、大人しいというか…。あの20代の時に感じたワクワク感が残念ながら再現されてこなかったのです」とその時の印象を語ります。
そこで渡部さんは、「なぜあれだけ欲しかったカルマンギアがピンとこなかったのかを自分なりに考えました。若い頃というのは少し大人びたものに憧れを抱いたりする一方、年を重ねていく(と同時に経験も重ねていく)と青春時代に戻りたくなるものです。その視点で、今の私にはこのカルマンギアでは満足できない、まだまだ刺激が足りない」という結論に至ったそうです。
その一方、渡部さんと青木さんとの間では、この記念車のプロジェクト以前からアメリカ車をテーマにした新型車を作りたいという共通の思いがあったそうです。そこでは渡部さんのアメリカでの経験や、その時に得た自動車の知見、デザインまでが語られていたそうです。
そういったことを踏まえ、青木さんは再びデザインを描き、渡部さんに1枚のデザイン画が届けられました。そのクルマのタイトルは、“タイプカリフォルニア”。
「そのデザインスケッチを見た瞬間に“ビビビッ”ときました。まさにこれだ、これに間違いないと感じたのです。その後、社長も気に入りロックスターの誕生につながりました」とその経緯を語りました。