8月6日はマツダ創業者の誕生日、そして… 広島の松田一家、運命分けたあの日

8月6日と広島、その関係は説明するまでもないでしょう。しかしこの日と広島を代表する企業、マツダとの関係は、あまり知られていないかもしれません。

8月6日が誕生日だったマツダ創業者

 戦前、広島で東洋工業を設立し、自動車メーカー「マツダ」(広島県府中町)の礎を築いた松田重次郎(まつだじゅうじろう)氏。広島に人類史上初の原子爆弾が投下された1945(昭和20)年8月6日が、彼にとって70回目の誕生日であったことは、あまり知られていない事実かもしれません。そして、重次郎氏とその家族が8月6日にたどった、数奇な運命も――。

 マツダが所有する『松田重次郎翁』をひも解くと、原爆投下時、爆心から5.3km離れた安芸郡府中村(現在の府中町)にあった東洋工業は、爆風によって建物が一部損壊する被害に遭いながらも、設備機械はほぼ無傷で残存。しかし、広島市内で疎開作業に従事していた社員およそ200人が死傷するなど、原爆による打撃は大きかったといいます。

 70歳の誕生日である1945年8月6日の朝。重次郎氏はいつものように、運転手の水野敏正氏(元東洋工業社員)を自宅へ迎えに来させています。水野氏の回想によれば、水野氏が到着したのは午前7時25分。水野氏は重次郎氏に「おめでとうございます」と祝いの言葉をかけ、クルマは予定通り大手町(広島市中心部)の散髪屋へと走ります。

 その後、散髪を終えた重次郎氏は近くの護国神社でお参りをし、水野氏が運転するクルマに乗車。会社に向かう車中で、原爆投下の瞬間を迎えることになります。マツダによると、散髪屋があった大手町1丁目は爆心地から200m以内、護国神社も同300m以内で、重次郎氏が原爆投下の直前まで、爆心地付近にいたことがわかります。

 実際、重次郎氏のすぐあとに散髪屋へ入った客は、原爆で即死したという記録が残っているといいます。以下は、水野氏が原爆投下の瞬間を回想した一節です。

「猿猴川を渡り、荒神橋東詰を過ぎて、西蟹屋町の宇品線の踏切を通り、満津井の料理屋のちょっと先くらいのところで、マグネシウムを焚いたような光線を受けたわけです。(中略)ふっと見ると、マグネシウムを点火したときのようにフワーとタンクが燃えるような状態で、『やーしもうたのー』と思ったら、ダーンと来たんです。それから一刻どうなったか全く闇で真っ暗でした」

 1945年8月6日午前8時15分。広島に人類史上初の原爆が投下された瞬間でした。

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