8月6日はマツダ創業者の誕生日、そして… 広島の松田一家、運命分けたあの日
重次郎氏の長男と次男、運命が分かれた8月6日
重次郎氏の長男で、のちの東洋工業社長、松田恒次氏は志和口(現在の広島市北東部)で8月6日を迎えています。たまたま8月5日にトラックの都合がついたため、広島市内の自宅から志和口の農家へ疎開のため引っ越し。原爆が投下されたのは、まさにその疎開した翌朝のことでした。
「朝、恒次は不思議な閃光に驚き、轟音を聞いて戸外に飛び出した。山の向こうに真っ黒い煙が湧き上がるのが見えた。午後になって、広島市が壊滅したという情報が入り、恒次が汽車、徒歩、自動車とつないでようやく会社にたどり着いたのは、(午後)4時ごろであった」(『松田恒次追想録』より)
重次郎氏、そして恒次氏はまさに“紙一重”のタイミングで、奇跡的に命を落とさずに済んだのです。
一方、重次郎氏の次男で当時、販売会社のマツダモータース社長を務めていた宗彌氏は、原爆によって落命。記録によると、宗彌氏は8月6日、広島市塚本町の会社事務所にいるところで原爆が投下され、被爆死したといいます。
宗彌氏の死については、恒次氏が妹の夫(義弟)に宛てた手紙にその内容が記されています。以下はその一節です。
「幸ひ父、村尾、拙宅には死傷者を出す事無かりしも宗彌の店は倒壊と共に全員下敷きとなり火災の為に焼け宗彌は親族中の最初の戦災犠牲者として白骨となり……(省略)」(『松田恒次追想録』より)