高価格の日産「シーマ」がバカ売れだったバブル期の「シーマ現象」とは何だったのか?
好調だったシーマながら5回のピンチに見舞われた
しかし、「シーマ現象」の言葉が示すシーマの独走状態はわずか約1年半でした。
シーマはたびたび窮地に立たされましたが、1回目のピンチは1988年夏に昭和天皇が体調を崩されたときです。
この時期、テレビは昭和天皇の体調を定時毎に放送し、祭事は「諸般の事情」で中止され、急速に自粛ムードが漂いました。当然、自動車の販売にも影響したのです。
昭和天皇は1989年1月に崩御されましたが、その後、春頃から人々は我慢していた高額商品購入をするようになり、高級車の売れ行きは再度上昇しました。
2回目のピンチは1989年10月です。拡大する高級車市場に対し、トヨタは米国専用の予定だったレクサス「LS400」を「セルシオ」として国内へ導入。11月には日産も「インフィニティQ45」の販売を始めました。
その結果、シーマは「一番大きく高額なクルマ」という地位から降り、「選択肢のひとつ」になってしまったのです。
さらに3回目のピンチは1989年末に日経平均株価は史上最高額の3万8915円を記録したときで、直後の1990年1月に株価は突然下落し不穏な空気が流れ始めます。
そして4回目のピンチが続きます。当時、株価は下落するものの土地価格は高止まり傾向。不動産業者は銀行から資金を得て土地を購入・転売しては利益を得て、銀行も利子で収益を上げていました。
それらの業者のなかには、住人に嫌がらせをして立ち退かせる、いわゆる「地上げ」行為をする者も存在。土地価格は、不動産業者と銀行により上昇していたのです。
そして無策の国へ非難が集中し、1990年3月、国は土地取引に関する融資総額を規制する「不動産関連融資総量規制」を展開しました。
融資が制限されると不動産業者は土地の購入が困難になるため、1991年下半期には土地価格が下落を始めました。
ところが、融資していた銀行側も回収が困難になり、いわゆる不良債権が発生。土地価格どころか景気も落ち込んでいくのでした。
この頃になるとシーマは、「とにかく儲けた人のクルマ」と見られるようになっていました。
妬みの視線を投げかけたり、事業の失速を嘲笑する人も現れるなど、シーマのイメージも世の中の空気は決して良いものではなくなってしまったのです。
5回目のピンチは、1991年1月に訪れます。欧米側の多国籍軍とイラクの間で「湾岸戦争」が勃発。当時は第三次世界大戦への拡大も懸念されました。
日本は参戦しませんでしたが、報道される戦争の風景に景気停滞ムードが漂い始めます。
株価下落と不動産関係や銀行の業績悪化、好景気に対する嫌悪感などにより、多くの人が好景気の終わりを感じ始めました。
そして1992年夏、3ナンバー車の販売台数が減少に転じ、高級車が売れた「シーマ現象」は幕を閉じたのでした。
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セドリック・グロリアは1991年6月にY32型にフルモデルチェンジ、シーマ用のエンジンを搭載。シーマは2か月後にフルモデルチェンジし、英国調のエレガントなセダンに移行しました。
トヨタも同年9月にクラウンをフルモデルチェンジし、280馬力のツインターボエンジンを搭載する初代「アリスト」も登場するなど、トヨタ流の高速セダン像を築きます。
すなわち初代シーマの、「新しい高級・高速セダン」像が各車に分散し、シーマの特殊性は薄れていったのです。
しかし、「シーマ現象」のように、特定の車種名が経済現象を象徴することはまずありません。
「シーマ現象」の言葉と功績は、バブル期を象徴する歴史的用語として語り継がれていくのではないでしょうか。
現行型はいい加減フーガと取捨選択したほうがいい