昭和のドライブは大変だった!? ナビやETCが存在しない時代のドライブ事情とは
東京2020オリンピックが1年遅れで2021年に開催されましたが、前回の東京オリンピックは1964年に開催され、マイカーが普及を始めたのもその頃でした。いまとは異なる、1960年代から1980年代のドライブ事情とは、どのようなものだったのでしょうか。
昭和のドライブでは準備がとっても重要だった!?
新型コロナ禍感染拡大の影響によって1年延期されましたが、東京2020オリンピックが2021年7月23日に開幕し、8月8日に閉幕しました。
前回の東京オリンピックがおこなわれたのは57年前の1964年。これ以降、日本はさらに経済的に成長し、1960年代末になると多くの人がマイカーを持てるようになってきました。
これ以前の時代にも、鉄道を利用した郊外への日帰りや1泊旅行が「仕事の生産性を向上させるためのレジャー」として広まっていましたが、1960年代後半は、レジャーとしての移動手段も鉄道からマイカーに置き換わっていき、気軽にドライブ旅行に行く人が増えました。
とはいえ、現在のように高速道路やバイパスが整備されているわけでもありません。
移動は一般道が中心でしたから、東京都内を例にとると箱根や日光辺りが日帰りの限度。しかも、現代に当然ある電子ツール類は皆無で、ドライブをするには色々な準備が必要だったのです。
1960年代から1980年代半ば頃のドライブの必需品には、どのようなものがあったのでしょうか。
●紙の地図
当然のことですが、1960年代当時にはカーナビゲーションもVICSもスマートフォンもありません。
ちなみに、カーナビゲーションの元祖は、ホンダが1981年9月に「アコード/ビガー」に初搭載した「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」だといわれています。
ナビなどない時代は、目的地までの道路は紙の地図であらかじめ調べておき、当日も紙の地図を持参していました。
助手席にいる人は、ドライバーが道を間違えないように、交差点や目印などについてアドバイスをしなければなりませんでした。もちろん、居眠りをすることなど許されません。
紙の地図を発行する会社はいくつもあり、地点を絞って大判としたもの、小判で全国を記したものなど、それぞれの会社が特色を出していて、1980年代には「抜け道マップ」なども流行しました。
1970年代当時の国道などでは、旧宿場町を避けて新しいルートが作られたりしていたので、市街地の入り口には道路の分岐があったものです。
分岐や曲がり角がある国道、県道には、地図上で分岐点や交差点などを吹き出しで拡大、見やすくしている地図もありました。
現在では道路のあちこちにある「交差点と行き先を示した青い道路標識」は、当時はほとんどなかったのです。
紙の地図のなかにはドライブ専用地図というものもあり、丁寧にガソリンスタンドの位置まで示しているなど、現在のカーナビで便利と思える機能は当時から地図に盛り込まれていました。
1980年代後半になるとガソリンスタンドが24時間営業するところも増えてきたのですが、1970年代はそうもいきません。そのためガソリンは、余裕をもって給油しておく必要があったのです。
しかし、道路はどんどん新しく作られたりするものです。しかも地図は頻繁に買い替えるわけではないので、地図に載っている交差点がなくなっていたり、新しい道路があるのに旧道を延々と通るはめになったり、合併で市町村の名前が変わっていたり、実状と違ってしまうことがよくありました。
助手席のお母さんが地図を見ながら案内をしたのに、目的地に全くたどり着けず、楽しいはずの家族ドライブが険悪な夫婦喧嘩の原因になる、ということも珍しくありませんでした。
あくまで相対的・総体的な話ですが、それだけクルマに乗れる人も少なく、結果として運転マナーも現代とは比較にならないくらいまともでした。クルマが人様の迷惑になっているという意識もまだかすかに残っていました。お金持ちがみんな知的水準が高いと言うわけでもありませんが、すくなくとも現代のように文字通り猫も杓子もガキもあほんだらもクルマに乗る訳ではない良き時代の最後でしたねえ。
砂利道も多く頻繁にパンクとか、高速道路も入口券も当初は係員から受け取ってた。