業界騒然!! クーペより安価なチシタリアのカブリオの数奇な運命とは
ピニンファリーナが架装したチシタリアは、MoMAにも永久保存されるほど有名な歴史的名車だが、スタビリメンティ・ファリーナが架装したとされる希少なカブリオレには、オークション・マーケットはどのようなジャッジを下すのだろうか。
イタリアの小さな宝石、「チシタリア」とはどんなメーカー?
COVID-19の影響によりオンライン限定とされた「OPEN ROAD FEBRUALY」オークションは、同社の北米本社および欧州本社の双方から出品がおこなわれ、そのアイテム数は自動車だけでも108台に及んだ。
今回VAGUEが注目したのは、イタリア発祥の伝説的ブランド「チシタリア」が初めて少量製作・販売したロードユーズ用スポーツカー、「202SC」のなかでも希少なカブリオレである。
ディーラー販売/オークションを問わず、「For Sale」を明示して国際マーケットに出てくる事例の極めて少ないチシタリアには、2021年現在でいかなる評価が下されるのだろうか?
●1950 チシタリア「202 SC カブリオレ」
イタリア・トリノでチシタリア社を創立したピエロ・ドゥシオは、第二次世界大戦前のイタリアにて繊維産業で財を成した実業家。
その一方でサッカーをこよなく愛し、ビジネスに精を出す傍らでプロの「ジョカトーレ(サッカー選手)」としても活躍。地元トリノの名門クラブチーム「ユヴェントス」ではセンターハーフを担当していたという。さらに後には、自らチームオーナーとしてユヴェントスの運営に関与するほど力を注いでいた。
そのドゥジオが、サッカーにも劣らぬ情熱を懸けていたのがモータースポーツである。アマチュアながらミッレ・ミリアなどの大レースに参戦し、1934年にはイタリア国内選手権チャンピオンにまで上り詰めた彼は、次なる目標として、自らのレーシングマシーンを創ることを考え始めた。
そして、その夢の実現のために製作されたのが、今や伝説ともなっているチシタリアなのである。
第二次大戦終結の直後、1945年にチシタリアが最初に手掛けたモデルは、フィアットからレンタル契約で一時的に参画したダンテ・ジアコーザ博士の設計による、1.1リッターの小排気量フォーミュラマシン「D46」だった。
そしてD46用を拡大した鋼管スペースフレームに同様のサスペンション、あるいはエンジンなどのメカニカルコンポーネンツを共用する「202SMM」などの2座席レーシングスポーツを開発。戦後初めて開催された1947年の「ミッレ・ミリア」で大いに注目を集めることになる。
北イタリアの公道1600kmを一気に走破する壮大なレースにて、チシタリア202SMMは、タツィオ・ヌヴォラーリによるパフォーマンスとともに一気に名を挙げた。
大戦前に世界を制覇した往年の名手ヌヴォラーリは、1100ccの小さな202SMMスパイダーで、エミリオ・ロマーノ/クレメンテ・ビオンデッティ組のアルファ ロメオ「8C 2900Bベルリネッタ」と壮絶なバトルを展開。惜しくも敗れたものの、僚友たちのチシタリア202とともに2−3−4位を占め、新しいブランドの名を全欧に轟かせた。
そして、レース以外のロードユースも見越した初の市販モデルとして開発されたのが「202SC」あるいは「202GT」と呼ばれる、快適さも追求した小さなグラントゥリズモだった。
202SCのシャシは、202SMMとほぼ共通のものとされた一方、心臓部は同時代のフィアット「1100(508C系)」用の1089cc直列4気筒プッシュロッド(OHV)エンジンをベースとし、主にヘッドを中心に大規模なチューンナップを施したもの。60bhp/5500rpmという、当時の小型スポーツカーとしては充分に満足すべき数値をマークした。
ところが、202SCの販売価格は同時代のキャデラックにも匹敵する高価なものとなったことから、生産はごく少数に終わる。さらに、ポルシェにマシン開発を依頼して進めたF1計画の失敗でチシタリア社は経営破綻。ドゥジオはアルゼンチンへ失意の移住を図り、トリノに残されたスタッフたちが「アバルト&C.」社を興すことになる。
しかし、そんなはかなさが現在においては伝説性と希少性、ひいてはクラシックカーマーケットにおける高評価に繋がっているのも事実なのだ。
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