80年代グランプリは熱かった! レジェンドライダー エディ・ローソンの軌跡を追う
2ストローク500ccで世界グランプリ最高峰クラスGP500が争われていた時代、その中で4度の王座に就いたレジェンドライダーエディ・ローソン。80年代を駆け抜けた歴史的ライダーの軌跡を追う!
アメリカ人ライダー黄金時代「ステディ・エディ」と呼ばれるライダーがいた
世界グランプリの最高峰クラスGP500で、4度王座(1984年/’86年/’88年/’89年)に就いたアメリカ人ライダーがエディ・ローソンです。フレディ・スペンサー、ケビン・シュワンツ、ウェイン・レイニー、ワイン・ガードナーらが集った80年代は間違いなくグランプリ黄金期のひとつですが、ローソンはタイトル獲得数でも通算優勝回数(31回)でも彼らを上回るレジェンドとして歴史に名を残しています。
そんなローソンは‘80年、22歳の時にカワサキと契約。AMA(全米モーターサイクル協会)におけるトップライダーの仲間入りを果たすと、その翌年にホンダのフレディ・スペンサーを退けてスーパーバイククラスの全米チャンピオンに輝き、同時に250ccクラスも制して2冠を達成したのです。
老獪さを感じさせる走りゆえ、「ステディ・エディ」と呼ばれるようになったのはこの頃からですが、ローソンは当時まだ23歳。その速さがあまりにも突出していたがために、淡々と勝利を積み重ねているように見えたことは皮肉と言えるでしょう。その評価は引退までくつがえることがありませんでしたが、実際は一か八かの賭けに出ることもいとわない勝負師でもあったのです。
例えば‘82年のこと。デイトナでは奇襲と言ってもいい無給油作戦を敢行してラストラップにガス欠で後退したり、ラグナ・セカではチームのトランスポーターがマシンごと焼失し、勝てるはずのない急造マシンでスペンサーに食い下がって転倒。脊椎を骨折した状態でシーズン後半を戦ってタイトルを防衛するなど、ステディとは裏腹なアグレッシブさを見せていたのです。
‘83年になると、ローソンを取り巻く環境は一変します。ヤマハからGP500のオファーが舞い込み、世界に打って出る体制が整ったからです。
とはいえ、ヤマハが期待していたのは当時のエースライダー、ケニー・ロバーツのサポート役でした。つまり、レースではロバーツの後方を走り、ホンダやスズキに乗るライバル勢の防波堤になることを求めていたというわけです。
マシンはもちろん、コースもほとんどが初めてという条件を考えるといささか荷が重いと言わざると得ませんが、ローソンはランキング4位でシーズンを終了。ルーキーとしては充分な働きをしたと言えるでしょう。
マシンに慣れ、コースの学習も済ませた‘84年になると、ローソンは完璧な仕事をしました。独創的なホンダのV4マシンに翻弄されるスペンサーは5勝を挙げながらも終盤はケガによって欠場。対するローソンは4勝に留まるも全ライダー中、唯一全戦でポイントを獲得し、初の世界チャンピオンに輝いたのです。
翌‘85年はスペンサーに敗れてランキング2位に終わったものの、‘86年になるとタイトルを奪還。このふたりが常に抜きん出た速さを見せていた一方、次世代のライダーも着々と育っていました。
その片鱗が見えたのが‘86年3月9日のことです。この日、ローソンは世界グランプリ開幕前にデイトナ200マイルに参戦し、結果的にポール・トゥ・ウィンを飾っています。
とはいえ、それは決して安泰なものではなく、執拗に絡むホンダVFR750Fのウェイン・レイニーとスズキGSX-Rのケビン・シュワンツを振り切っての勝利だったのです。
またこの同日、鈴鹿で開催されていた全日本ロードレースのTT-F1クラスにおいて独走優勝を果たしていたのがワイン・ガードナーで、この3人が肉体的、もしくは精神的な問題を抱えていたスペンサーに代わってローソンのライバルとして急激に成長。彼らがGP500の舞台で激突し、数シーズンに渡って繰り広げた熾烈な争いは「4強時代」として今なお語り草になっています。