80年代グランプリは熱かった! レジェンドライダー エディ・ローソンの軌跡を追う
4強時代到来、その中でローソンは移籍を決断する
‘87年にまずガードナーが抜け出して新チャンピオンに輝くと、ローソンは以前にも増してレースに貪欲に取り組んでいきました。
その翌年はタイトル防衛に執念を見せるガードナーと波に乗ると手がつけられない速さを発揮するシュワンツ、そしてルーキーとは思えない安定感を身につけていたレイニーを退けて3度目のタイトルを手にするとそれに飽き足らず、‘89年のシーズン直前にヤマハからホンダへ移籍することを発表。そして見事4度目の、そして自身初の連覇に成功したのです。異なるメーカーでの連続チャンピオンは、後にバレンティーノ・ロッシが達成するまで誰も成し得なかった偉業のひとつになりました。
再びヤマハに戻った‘90年は、ケガの影響でタイトル争いからは脱落しつつも鈴鹿8耐では平忠彦を表彰台の中央を導き、優勝請負人としての評価を確固たるものにしたのでした。
孤高感を漂わせるローソンが次にどこへ行き、どんな結果をもたらすのか?
この頃になるとそれは恰好のネタになっていましたが、‘91年は競争力が高いとは言えなかったイタリアのカジバに移籍。引退間近の話題作り、もしくは金稼ぎと揶揄する声をよそに精力的に開発を進め、‘92年のハンガリーGPではついにカジバへ初優勝をもたらしたのです。
レース序盤、雨に濡れたハンガロリンク・サーキットをインターミディエイトとカットスリックで耐え抜き、終盤に路面が乾いてくるや猛然とダッシュしてトップをもぎ取るという戦略とその遂行は、若かりし頃と同じ勝負師の姿そのものでした。
それでももし「ステディ」という言葉がふさわしいとするなら、ロードレース最後の優勝になった‘93年のデイトナ200マイルがそれに当たるでしょう。
前年に世界グランプリから引退していたローソンは、ヤマハからスポット参戦することを表明。決勝はカワサキのスコット・ラッセルが優勢に見えましたが、ローソンはその背中を見つめながら勝つための策略を張り巡らしていたのです。
カギとなったのはピットインの回数で、このレースではタイヤ交換と給油のため、2回のピット作業を行うのが通常パターンとされていました。しかしながらローソンのマシンはタイヤの摩耗が早く、3回のピットストップを必要としていたため、何事もなければ勝算はなかったのです。
そこでローソンはその距離を巧みにコントロールしながらラッセルを翻弄。プレッシャーに耐えかねたラッセルはペースを乱し、予定外のタイヤ交換を強いられたのです。この瞬間、レースの主導権はローソンに移り、ラストラップにトップに立つという鮮やかな逆転劇を披露したのでした。
デイトナ・スピードウェイはコース全体が見渡せるサーキットです。そこに集ったすべてファンに見せつけたこの巧みさこそが「ステディ・エディ」の集大成だったと言えるでしょう。
【了】