伝統と革新の融合? 豪華さとスポーティさが光る「7th スカイライン」を振り返る
シリーズ最強のモデルとなった「GTS-R」とは
排出ガス規制が強化された1970年代を除き、スカイラインはモータースポーツと密接な関わりがありました。7代目スカイラインも同様で、1985年から始まった「全日本ツーリングカー選手権」に本格参戦します。
この全日本ツーリングカー選手権は「グループA」と呼ばれるカテゴリーで争われ、市販車をベースに変更できる部品が厳しく制限されており、ノーマルの状態でのポテンシャルがそのまま戦闘力の向上につながりました。
そのため、日産は1987年にレースベースに特化したマシン「スカイラインGTS-R」を800台限定で発売。
GTS-R専用に開発されたエンジンは2リッター直列6気筒DOHCターボの「RB20DET-R型」で、専用のターボチャージャー、エキゾーストマニホールドなどが採用され、シリーズ最強の210馬力(ネット)を発揮しました。
外観では、通常のGTSでは70km/h以上で出現する可動式だったフロントスポイラーは、レギュレーションの関係から固定式に改められ、大型のリアスポイラーを標準装備し、フロントグリルやバンパーも専用の意匠を採用。
そして、発売年の1987年シーズン終盤から、GTS-Rは全日本ツーリングカー選手権へと投入されました。
1987年当時の全日本ツーリングカー選手権には、トヨタ「スープラ」、フォード「シエラRS500コスワース」、三菱「スタリオン」など強豪がひしめく状況のなか、GTS-Rはライバルと対等以上の戦い見せ、1989年のシーズンでは長谷見昌弘/A.オロフソン組が3勝を挙げ、シリーズチャンピオンを獲得します。
また、1988年には欧州でもGTS-Rは別な使命を背負って「欧州ツーリングカー選手権」に参戦していました。
レースマシンは日本のグループA車両と同等の仕様ですが、排気量や吸気系などのパーツは異なり、イギリスのファクトリーで仕立てていたので、電装系やシートなどのパーツ類も日本のレース仕様とは異なっていたといいます。
本来、ツーリングカー選手権は、市販車のポテンシャルの高さをアピールして販売増に繋がるという効果が期待できました。しかし、スカイラインは国内専用に近く、一部の国や地域を除いて販売されておらず、欧州へも本格的に輸出されていませんでした。
では、なぜスカイラインが欧州ツーリングカー選手権に参戦したかというと、それは後の「ル・マン24時間耐久レース」への布石です。
シーズンを戦うためにイギリスに拠点となる「NME(日産モータースポーツ・ヨーロッパ)」を設け、欧州を転戦することでル・マン24時間耐久レース挑戦への体制作りを進めました。
GTS-Rの最高位はスパ・フランコルシャン24時間レースの6位と大きな結果は残せず、わずか1シーズンの戦いでしたが、日産のグローバルなレース活動には大きく貢献したといえます。
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1989年に8代目スカイラインが登場し、7代目の役目は終わりました。
そして、3代目となるR32型スカイラインGT-Rが登場して、公道でもレースでも圧倒的なパフォーマンスを見せつけ、伝説となります。
華やかな面では歴代でも8代目が注目されますが、7代目はスカイラインの伝統と革新が融合した集大成といえるモデルとして、いまも多くの人々の記憶に残っていることでしょう。
なお、それを証明するように7代目スカイラインを専門に扱うショップもあり、いまではメーカーでは取り扱っていない部品を供給するなど、7thオーナーの強い味方となっています。
レオーネ復活してほしいです