激レア車発見!! デ・トマソの野望を背負ったランチア試作車とは?
フォードがランチアを買収しようとしていた! その真相は?
ランチアHFコンペティツィオーネのプロジェクトを発案したとされるのは、この時代にカロッツェリア・ギアの社主であったアレハンドロ・デ・トマソその人だったという。
当時のデ・トマソ生産車といえば、レーシングカーやスーパースポーツ、GTカーともに、密接なかかわりを持ちつつあったフォード社製のコンポーネンツを流用するのが常道だった。
ところがこのプロトティーポのみは、当時のデ・トマソに深い関わりがあったわけではないはずのランチア市販車をベースに製作されているのだが、そこにはデ・トマソの野望が大きく影響していたようだ。
●アレハンドロ・デ・トマソの野望の遺産?
1960年代後半、イタリア自動車業界の再編成に乗り出そうとしていた彼は、フェラーリとの「婚約破棄」およびその後のレース界で大リベンジを果たしている真っただ中だったフォードに、ランチア社を買収させようと目論んでいた。この時代のランチアは、慢性的な財政危機にあったのだ。
そして、提携関係を通じて親友ともいえる間柄なっていたフォード・モーター・カンパニーのCEO、リー・アイアコッカは、ランチアのCEOとしてデ・トマソを指名する……、というのが彼の描いた計画であったという。
ところが、イタリアの良識ともいわれた名門ランチアのトップになる、というアレハンドロの夢は、はかなくも崩れ去った。1969年9月にフィアット・グループがランチアを傘下に収めたことで、フォードによる買収計画はキャンセルとなってしまったのだ。
しかし、デ・トマソが「ハニートラップ」として計画したコンセプトだけは現実のものとなり、1969年のジュネーヴ・ショーおよびトリノ・ショーにて大きな注目を集めるに至った。
さらにデ・トマソは、このプロトティーポの終幕を飾るべく、1970年のル・マン24時間レースに参加を期したモディファイを指示。ボンネットにはエアスクープを取り入れたパワーバルジが設けられるとともに、リアには巨大なウィングスポイラーを設置した。
また、当時のFIAレギュレーションに準拠した大容量のアルミニウムタンクがリアコンパートメントに追加されるとともに、ガソリンの給油口もクイックリリース型に変更。ウィンドスクリーンは、ベルギーのグラヴァーベル社がオーダーメイドした軽量タイプに換装。サイド/リアウインドウもプレクシグラスとされ、レース仕様のロールバーも取り付けられた。
しかし、レーシングカーに改装され、名実ともに「コンペティツィオーネ(レースカー)」となったプロトティーポは、テストのみでル・マンの実戦に登場することなく終わり、歴史の表舞台から姿を消すことになったのだ。
こうして役目を終えたランチアHFコンペティツィオーネは、ギアと同じくデ・トマソ傘下となっていたカロッツェリア、「ヴィニャーレ(Vignale)」の創始者であるアルフレッド・ヴィニャーレの甥のもとで、約20年にわたって所蔵されたといわれている。
今世紀を迎えたのちに現在の所有者に譲渡され、2014年にはフルレストアを受けることになった。また北米「アメリア・アイランド・コンクール・デレガンス」にも出品され、複数のエンスージアスト向けメディアで大きく取り上げられた。
「ギア」と「ランチア」、そして「デ・トマソ」の歴史のうねりを物語るユニークな1台。「ランチア・クラシケ(現FCAヘリテージ)」が真正を証明したCertificato(チェルティフィカート:証明書)も添付されているというランチアHFコンペティツィオーネに、RMサザビーズ社は14万ー18万ポンド、日本円換算にして約1955万円ー2515万円というエスティメート(推定落札価格)を設定していた。
ところが、実際のオンライン競売ではビッド(入札)が振るわなかったのか、残念ながら流札。現在では上記のエスティメートを提示したまま「Still For Sale(継続販売)」となっているようだ。
この価格について、様々な意見が出てくることは容易に想像ができる。
しかし、アニバーサリーイヤーやブランド別/コーチビルダー別などのテーマを上手くキャッチできれば、伊「コンコルソ・ヴィラ・デステ」や北米「ペブルビーチ」など、一流どころのコンクール・デレガンスの招待資格も狙えそうな1台であることを勘案すれば、決して高くないとも思われるのだが、いかがなところであろうか……?
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