フェラーリじゃないフェラーリ、「ディーノ」は「ミウラ」の対抗馬だった!?
「ミウラ」に危機感をつのらせたピニンファリーナ
ディーノGTが正式に生を受けるには、もうひとりのキーパーソンが存在した。ピニンファリーナ社の若きトップ、セルジオ・ピニンファリーナである。
●若きセルジオ・ピニンファリーナの情熱
1966年3月のこと、フェラーリの信頼を一身に受けていたカロッツェリア、ピニンファリーナのセルジオ・ピニンファリーナ副会長は、この年春のジュネーブ・ショーにて発表されたランボルギーニ「ミウラP400」のボディに戦慄することになった。
ミウラのボディは、ピニンファリーナにとっては不倶戴天のライバルとなりつつあった、ベルトーネの作である。ミドシップ・レイアウトを生かした低くてシャープなミウラのボディは、当時開発作業が進められている真っただ中で、FRレイアウトを持つフェラーリ「365GTB/4デイトナ」の製作者たるピニンファリーナを意気消沈させてしまう。
デイトナと比べるとミウラは15cmも低くて、格段にコンパクトなボディを持っていたのだ。
この時セルジオは、周囲に漏らしていたという。「われわれは最大限の努力はしたけれど、ミウラと比べるとデイトナはまるで2階から運転している気がする……」と。
実はその前年、1965年10月のパリ・サロンにて、ピニンファリーナはディーノのGr.6レーシングプロトタイプ「206S」用シャシの使用を見越したコンセプトカー「ディーノ・ベルリネッタ・スペチアーレ」を出品していた。
しかしミウラ誕生のインパクトは、この直後に逝去することになる父バッティスタのあとを継ぎ、40歳にしてイタリア・カロッツェリア界の盟主ピニンファリーナ帝国の総帥になろうとしていたセルジオに焦燥感をもたらすには、充分以上のものであった。
そこでセルジオは、エンツォ・フェラーリに対して「ミドシップの市販スポーツカーに乗り出すべき」と説得を試みた。そして、その説得が決め手になったか否かは定かではないが、エンツォもミドシップ・エンジンを持つグランツーリズモの開発・市販について前向きな姿勢を見せることになるのだ。
とはいえ、そこは老獪な「イル・コンメンダトーレ」エンツォのことである。どちらかといえばコンサバ志向の多い跳ね馬のカスタマーたちに、いきなり新機軸であるミドシップのフェラーリ・ストラダーレを提示するような冒険は避けたいと考えた。
かくして、フェラーリV6エンジンを残してこの世を去ったエンツォの長子、「ディーノ」の名が、もうひとつのブランドとして誕生。そして、自動車史上屈指の名作ディーノGTのプロジェクトが、正式にスタートすることになったのである。
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