一糸まとわぬ裸の「ミウラ」が世界を魅了した! スーパーカーの始祖誕生物語【THE CONCEPT】
フェルッチオが心変わりして、ついにミウラが製品化される
実はダラーラやウォーレスたちの「課外活動」について、もともと自社モデルに上質かつ古典的なグラントゥリズモを望んでいたフェルッチオ・ランボルギーニ自身は明らかな難色を示し、あくまで黙認程度の認識だったともいわれている。
ところがトリノ・ショーでの大成功、あるいはモナコでの反響に気を良くしたのか、機を見るに敏なビジネスマンでもあるフェルッチオは、ミッドシップの超弩級リアルスポーツの可能性にも目を向けるようになってゆく。
そしてTP400に合わせるボディをどうするか? という問題に直面するのだが、それまでのランボルギーニ市販モデル「350GT」および「400GT 2+2」のコーチワークを委託していたミラノの名門カロッツェリア「トゥーリング・スーペルレッジェーラ」は、この時期もはや風前の灯火であった(1967年に廃業)。
トゥーリングでは、ミウラを想定したドローイングやクレイモデルまで製作していたのだが、その先行きに不安を感じていたフェルッチオは、新しい選択肢を模索するようになったという。
そこで、シャシ+エンジンの内容に相応しいボディの製作に手を挙げたのが、当時売り出し中だったカロッツェリア・ベルトーネの社主、ヌッチオ・ベルトーネだった。両社の協議の結果、ベルトーネ側の主導でショーに出品し、結果が良ければ数台+α程度の限定生産をおこなう、という条件つきで試作を許可したとされる。
かくして翌1966年春のジュネーヴ・ショーには、くだんのTP400に、公式にはジョルジェット・ジウジアーロの後任として1965年から同社チーフスタイリストに就任したマルチェッロ・ガンディーニの作……とされる、ベルトーネ製のエキゾティックなベルリネッタ・ボディが架装された超弩級市販スポーツカー「P400ミウラ」として出展されるに至った。
メカニカルパートにおけるTP400との違いは、フロントカウル上面の直下に置かれた水平型のラジエーターが、ノーズ先端に垂直に置かれるコンベンショナルなレイアウトに変更されたこと。あるいはボラーニ社製ワイヤーだったホイールが、専用デザインのカンパニョーロ社製マグネシウム合金のものに代えられたくらいだったのだが、圧倒的なまでに先進的かつ美しいボディのインパクトは絶大だったことだろう。
フェルッチオは、この段階にあっても30台くらいの限定生産に終わると見積もっていたようだが、実際には購入を希望する本気のオーダーが殺到。ついに、シリーズ生産化に踏み切ることになったというのだ。
●後日談:生々流転のTP400
P400ミウラの正式デビューを見届け、すべての役割を終えることになったTP400シャシは、ランボルギーニ社内にてしばしの眠りにつくことになった。
この休眠状態が終わったのは、11年後にあたる1977年のことだ。ランボルギーニ社に残されたドキュメントによると、キプロス共和国にてランボルギーニ・ディーラーを営んでいたマリオス・クリティコスなる人物が、サンタアガタ・ボロネーゼのランボルギーニ本社を訪ね「TP400を譲ってほしい」とオファーしたという。
すでにフェルッチオ・ランボルギーニが去り、慢性的な経営危機に陥っていたランボルギーニ社は、この要請を即座に受け入れたことだろう。両社による協議の結果、TP400は翌1978年4月をもって、キプロスへと向かった。
ところがクリティコスの個人的コレクションに収まったはずのTP400は、再び表舞台から姿を消し、次に現れたのはそれから実に約30年後のことだった。TP400は、キプロス共和国からは遥かに離れた北米ロサンゼルス在住の、さるコレクターのもとで2008年に発見されたのだ。
そして、ロサンゼルスのスーパーカー専門店の社主で、ミウラに関する書籍も上梓しているジョー・サッキーと、ランボルギーニを得意とするスペシャリスト、ギャリー・ボビレフの二人が不動状態のTP400を共同で譲り受け、ボビレフがサンディエゴに構えた工房にてレストアが施されることになった。
その後、2013年の「ペブルビーチ・コンクール・デレガンス」に際しておこなわれたオークションに出品・落札されたのである。
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