なぜ日本に自動車メーカーが10以上存在する? 基幹産業となるまでの歴史とは
日本の自動車製造は1920年代半ばに始まり、10以上の国産自動車メーカーが現在まで生き残っています。なぜ、これだけ多くの自動車メーカーが生き残ることができたのでしょうか。
決して順調とはいえなかった、日本の自動車製造の黎明期
日本の自動車製造は1920年代半ばに始まりましたが、現在でも10以上の国産自動車メーカーが存在します。これは自動車を生産する先進国において、じつは稀なことです。
いったい、なぜこれだけ多くの自動車メーカーが存在しているのでしょうか。
日本で独自に自動車を生産するという試みは、国立科学博物館(東京・上野)の資料によると、大正時代から昭和初期に現れたとされます。
その一例は、大正末期に1リッター空冷4気筒エンジンを積んだ「オートモ号」を300台ほど生産した豊川順彌氏です。あるいは、750ccV型4気筒エンジン搭載の前輪駆動車「筑波」を設計・生産し、約150台販売した川真田和旺氏などの事業でした。
ただし、それらは資本力不足や未熟な技術が災いして、すでに大量生産・販売による圧倒的な価格競争力を確立していた、米国のフォードモーターやゼネラルモーターズ(GM)との勝ち目の無い競争にあっさり敗れて、消滅の憂き目を見てしまいます。
その後、国産自動車の近代企業としての先駆けといわれているのが、1930年代にスタートした日産とトヨタです。
自動車総合産業への進出を目論んだ企業家の鮎川義介氏は、自動車生産の周辺機器・部品産業を次々に買収して準備を進めます。
そして、1933年にフォードやGMとの熾烈な競争で苦しんでいた大阪のメーカー「ダット自動車」を買収し、未曾有の巨費を投じて「自動車製造株式会社」(後の日産自動車)を設立します。
鮎川氏は、米国メーカーに倣った近代的な自動車工場を横浜に建設しました。
日産は米国車と競合を避け、750ccクラスの小型車「ダットサン」の量産をスタートさせます。その一方で、日本の自動車市場を席巻していたフォードやシボレーの補修用部品を製造し、納品するという戦略的な経営で臨みました。
いっぽう、自動織機の特許で巨万の富を得た豊田佐吉氏も、自動車産業の将来性に着目しました。きっかけは、1910年の渡米でT型フォードの流行を目の当たりにしたことだとされています。
1929年、豊田自動織機のパテントを英国企業に売却して得た10万ポンド(邦貨に換算すると約10数億円)は、有能な技術者となった佐吉氏の長男・豊田喜一郎氏がトヨタ自動車を興すための資金となり、1933年豊田自動織機の正式な事業として自動車製造が始まります。
トヨタはスタート直後からフォードやシボレーの普通車クラスに挑みます。1936年に登場した「AA型」に搭載したエンジンは、完全なシボレー製6気筒のコピーでした。トヨタのクルマづくりは、米国車の模倣から始まったのです。
日野はいすゞの分家だしね、今の生産拠点は古賀だが日野の工場はいすゞの日野工場だった場所だしね。
いい加減にデュトロとエルフのシェアの椅子取りゲームみてると悲しくなるけどコンテッサやべレットを作った時代の互いの創造性は葬られたけどね