なぜ日本に自動車メーカーが10以上存在する? 基幹産業となるまでの歴史とは

日本の自動車産業が大きく発展した要因とは?

 ところが、ようやく芽生えた自動車産業のその後は、勃発した太平洋戦争で途絶えてしまいます。

ダットサン(日産)「サニー」
ダットサン(日産)「サニー」

 その太平洋戦争に敗れ、日本は占領軍(実質的には米国)の統治下に置かれます。そして、戦時中の軍需産業を支えた大企業はGHQの財閥解体政策で散り散りになりました。

 なかでも、戦時を支えた高度な航空機設計・製造会社は完全に解体されてしまいます。その後、小さな企業に分割されたかつての航空機製造企業の設計製造技術者は、戦後に自らの設計技術の腕を示すステージとして、自動車設計・製造に意欲を燃やすことになりました。

 代表的な例は、旧立川飛行機の技術者が揃い、後に国産乗用車の伝説をつくりだす「スカイライン」を生んだプリンス自動車であり、同じく旧中島飛行機から分離して1950年代後期に政府が提唱した国民車構想に合致した軽自動車「スバル360」を送り出すスバル(旧:富士重工業)です。

 さらに、大財閥の一翼を担っていた三菱重工業も自動車製造に名乗りを上げます。

 また、街のオートバイ屋の発展形として貨物車のオート三輪製造社が数々誕生します。そのなかにはマツダ(旧:東洋工業)やクロガネ自動車、軽三輪貨物車「ミゼット」を送り出すダイハツなどもありました。

 これらの製造会社が、現在の日本自動車産業を支えているのです。

 戦後、1952年のサンフランシスコ講和条約で晴れて独立国となった日本に欧米から多彩な乗用車が入ってきました。

 政府は国内自動車各社に乗用車設計・生産ノウハウを早急に習得させるため海外メーカーとの提携を勧め、日野はルノー「4CV」、いすゞはヒルマン「ミンクス」、日産はオースティン「A40」のノックダウン生産をおこないます。

 各社の実直生真面目な日本人技術者や従業員は、自動車生産に必要なノウハウを素早く習得し、その後の国産自動車の大飛躍の下地が固められました。

 1960年代になると欧州車のノックダウン生産で自動車の設計・生産技術を学んだ各社から、優秀なクルマを送り出されるようになります。

 そして、1962年にホンダが鈴鹿サーキットを建設。1964年に名神高速開通を皮切りに自動車高速道路網が整備され、国産自動車に高速時代が訪れます。

 100km/hが合法化された高速時代の到来は、国産車に欠けていた最高速度のみならず、加速性能、制動性能、操縦安定性、ハンドリング性能などを早急に身に付ける必要がありました。

 加えて、その性能アップは日本車の国際競争力を飛躍的に向上させ、国産自動車は1960年代半ばから輸出商品として急成長します。

 当時、自動車最大市場である北米への輸出が成功しなかったなら、国内自動車メーカーが10社を超えるほど、多く生き残ることはなかったといわれています。北米向け輸出に支えられ、日本の自動車産業は1960年代の高度経済成長をけん引しました。

【画像】日本の自動車産業を支えた歴代の名車たち(57枚)

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1件のコメント

  1. 日野はいすゞの分家だしね、今の生産拠点は古賀だが日野の工場はいすゞの日野工場だった場所だしね。
    いい加減にデュトロとエルフのシェアの椅子取りゲームみてると悲しくなるけどコンテッサやべレットを作った時代の互いの創造性は葬られたけどね

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