小さな巨人 地味だけど名車だったフィアット「127」は誕生から50年

フィアット「127」は天才デザイナーの遺作だった

 1970年代のイタリアにおける国民車、フィアット127について語る際に、以前は「ダンテ・ジアコーザ式前輪駆動」のトピックがストーリーの大部分を占めていた。しかし近年では、もうひとつの重要なトピック、このモデルのボディデザインを手がけたスティリスタ(スタイリスト)についても、語られる機会が増えているようだ。

 その名は「ピオ・マンズ(Pio Manzu)」こと、ピオ・マンゾーニ。現代アートに詳しい人なら、この姓をみてピンとくるかもしれないが、20世紀のイタリアを代表する彫刻家ジャコモ・マンズ(マンゾーニ)の息子である。

●早世した天才インダストリアルデザイナーの遺作

1971年、デビュー時のフィアット「127」の広報写真
1971年、デビュー時のフィアット「127」の広報写真

 1939年3月2日、ロンバルディア州の古都ベルガモで生を受けたピオ・マンズは、偉大な父から美術的才能を受け継ぎ、10代のころから持ち前の才能を工業デザインの道に活かそうと決意。その分野では世界の最先端にあると認識されていた、旧西ドイツの「ウルム造形大学(Hochschulefur Gestaltung)」に進学する。

 在学中から自動車デザインに強い興味を抱くようになったピオは、西独NSU(現在のアウディ前身のひとつ)社から供給されるメカニカルコンポーネンツを流用した、一連のコンセプト「AUTONOVA」プロジェクトに1964年から参画。現代のミニバンを半世紀前に示唆したような小型MPV「AUTONOVA FAM」などのデザインスタディとともに、ヨーロッパ自動車業界の注目を一身に浴びることになる。

 そしてジアコーザ博士の熱心なオファーに応えるかたちで、フィアット社内「チェントロスティーレ(デザインセンター)」に、社外コンサルタントとして加入。フィアットの社運を賭けた127のスタイリングを、20歳代半ばの若さで任されることになった。

 このタスクが相当な重圧を伴うものだったことは、容易に想像がつく。しかし、ピオは持てる才能と知見をいかんなく発揮。ウルム造形大学の源流のひとつである「バウハウス」的、あるいは現代のミニマリズムを予見したかのごとく簡潔な、しかし独特の造形美を感じさせる秀逸なデザインは、のちの正式デビューの直後から当時の識者から高い評価を受けることになる。

 また自動車デザイナーとしての成功と並行して、ピオは文具や家具の分野においても、工業デザイナーとして着々とキャリアアップを図ってゆく。

 もともと「リッツ・イタローラ(Ritz Italora)」が製造・販売し、現在ではあの「アレッシィ(ALESSI)」から復刻モデルが発売されている卓上時計「クロノタイム」がもっとも有名だが、ほかにも「カルテル(Kartell)」のデスクオーガナイザー、「FLOS」のブラケット式ランプなどのヒット作を続々と生み出していた。

 さらに「アウトビアンキ・クーペ」と名づけられたミッドシップの小型スポーツカー・コンセプトを1968年秋のトリノ・ショーで発表。そのかたわら、仏ルーヴル美術館で初めて開催されることになった「自動車」をテーマとする企画展に際して、外国人では唯一の車種選定委員に名を連ねるなど、まさしく順風満帆・前途洋洋のはずであった。

 ところが「好事魔多し」の喩えどおり、彼に不幸が襲いかかる。1969年5月26日、アウトストラーダで発生した大事故に巻き込まれたピオは、127のデビューを待たずして、30歳の若さでこの世を去ってしまうのだ。

 しかし、創造主たるピオを失った段階においても、このクルマのデザインワークは一定の段階まで進行していた。そして、夭折から2年後にあたる1971年4月にデビューしたフィアット127は、ピオ・マンズが若くして達成した偉業を代表する遺作として敬愛されることになったのである。

【画像】デザインが秀逸すぎるフィアット「127」の系譜(15枚)

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