「ランボルギーニBMW」といわれた悲運のスーパーカー「M1」とは【THE CAR】

BMW モータースポーツ社がランボルギーニと手を組んで生み出す予定だったスーパーカー「M1」。その誕生に至るまでの経緯と、知られざる完成度の高さを解説する。

遅れてやってきたスーパーカー「M1」

Writer:西川淳
Photographer:神村聖

 1979年、モナコGP。

 F1きっての晴れ舞台がおこなわれる前に、異様な集団がレースを始めた。

 M1プロカー。

 しかも集団を引っ張るのは、エマーソン・フィッティパルディやパトリック・デパイエといったF1界のスタードライバーたち。そして、勝者は、ニキ・ラウダ……。

 この年、そして翌1980年と綺羅星の如きスタードライバーたちが、このクルマを駆って、真剣勝負を繰り広げた。同一マシンによるドライバー勝負は、子供心にも夢のようなイベントだと心ときめかせたと同時に、ブームに遅れてやってきたベースのスーパーカーにも、強烈な印象を持つに至る。

●打倒ポルシェ! のはずが……

この当時のイタリアンスーパーカーと同じくリトラクタブルライトを採用
この当時のイタリアンスーパーカーと同じくリトラクタブルライトを採用

 BMW「M1」。

 その名が物語るとおり、今をときめくBMW Mモデルの始祖というべき存在であり、BMWが作った唯一のスーパーカー。リアミドにはマニア垂涎のM88ストレート6が積まれて……。

 と、M1物語は、必ずといっていいほど、こんな趣旨のフレーズで始まるものだが、スーパーカーファンにとっては、少しだけ様子が違うはずだ。

 なぜなら、M1は悲運のミドシップロードカーである、という説明の方が、しっくりくるからだった。

 何が悲運だったというのか。

 なぜなら、M1というクルマは、BMWから独立したてのBMW モータースポーツ社(今のM社とは組織体制が異なり、あくまでもモータースポーツが中心)が、あのランボルギーニと組んで、世に送り出すはずのスーパーカーだったのに、現実にはそうはならなかったからである。

 バーバリアンとサンタアガタ・ボロネーゼ、夢の競演になるはずだった。

 BMWおよびモータースポーツ社(以下、便宜的にM社)は、当時、メイクス選手権のかかったグループ5レースなどでポルシェ勢に遅れをとっていた。箱形乗用車がベースの「3.0&3.5CSL」では、いろんな意味で戦闘力に限界があり、「935系」レースカーの後塵を浴びていたのだ。

 そこで、シルエットフォーミュラシリーズでも勝てるレース用ベースカーが必要であるとM社は判断した。そして当時、苦境に陥っていたサンタアガタの経験と設備に目をつけたのだ。

 一方のランボルギーニはといえば、倒産寸前の青息吐息な状況において、それは喉から手が出るほど嬉しい提案だった。BMWの申し出に、復活をかけた一筋の光明を見いだした。

 計画は、こうだった。

 グループ5への転用可能なミドシップマシンを、「ミウラ」や「パンテーラ」で名をあげたジャン・パオロ・ダラーラを中心としたランボルギーニチームが設計。イタリアのボディスペシャリスト・マルケージが生産した鋼管フレームのリアミドに、BMW製ドライサンプM88ユニットを詰め込んで、ジウジアーロデザインのFRPパネルエクステリアで覆う。

 それは、今でいうところのアウディ&ランボルギーニ生産方式(「ガヤルド」&「ウラカン」のパワートレインとボディフレームはドイツから送られサンタアガタで組み立て)であった。

 独伊コラボによるリアルスーパーカーが、ひと足先に実現していたはず、だったのだ。

【画像】再評価されているBMW「M1」とは(13枚)

【2023年最新】自動車保険満足度ランキングを見る

画像ギャラリー

1 2

新車不足で人気沸騰! 欲しい車を中古車でさがす ≫

【NEW】自動車カタログでスペック情報を見る!

最新記事

コメント

本コメント欄は、記事に対して個々人の意見や考えを述べたり、ユーザー同士での健全な意見交換を目的としております。マナーや法令・プライバシーに配慮をしコメントするようにお願いいたします。 なお、不適切な内容や表現であると判断した投稿は削除する場合がございます。

メーカーからクルマをさがす

国産自動車メーカー

輸入自動車メーカー