ランボルギーニに採用されるデザインだった!? 激レアスーパーカー、チゼータ「V16T」とは?

スーパーカーはいつの世も、乗り手と造り手の欲望が渦巻くものだ。世界的に好景気であった1980年代、世界のウルトラリッチをターゲットにしたイタリアンエキゾチックカー、チゼータ「V16T」が誕生した。今や伝説のように語り継がれるチゼータとは、どのような夢を抱いたメーカーだったのだろうか。

アメリカ西海岸をターゲットにしたチゼータが生まれた背景とは?

 クルマ好きの飽くなき欲望というものは、今も昔も変わらぬようである。それは、乗り手の欲望であり、造り手の欲望でもあった。ときに、売り手の欲望もその周辺で渦巻いたことだろう。

カウンタックの後継モデル、ディアブロ用に用意していた案が、クライスラーによって却下されたために、チゼータに採用された
カウンタックの後継モデル、ディアブロ用に用意していた案が、クライスラーによって却下されたために、チゼータに採用された

 各所に偏在する欲という欲が、世界経済の動向と巷のクルマファッショントレンドという「時の流れ」を媒介とし、互いに真正面、フルラップで衝突したときに、チゼータ・モロダーのような貴種にして奇種が誕生する。

 名前の前半は、奇才エンジニアのイニシャルである。すなわち、C.Z.。これをイタリア語の発音で読めば、チーとゼータ、つまり、チゼータとなる。男のフルネームは、クラウディオ・ザンポーリといった。

 彼は、ランボルギーニの黎明期、年代でいうと1966年から1973年まで、パオロ・スタンツァーニの元、テスト&開発の担当者としてサンタアガタに勤務した。ミウラ、クンタッチ、ウラッコといった、決して経済的には恵まれなかったけれども、今となってはランボルギーニのレゾンデートルの源泉というべきヘリテージを作り上げた、ブランドイメージを託すモデル開発の最盛期に、ミスター・チゼータはいたのだ。

 巷のクラウディオ伝はそこからひと足飛びにモデナで自らの名を冠したスーパーカーメーカーを設立、と話が飛んでしまうわけだが、それはもっと年月が経ってから、実際には1985年のことであり、そこまでの、いわば雌伏の時間にこそ、チゼータ・モロダーV16T誕生に至る「ヒステリア」があったといって過言ではない。

 ランボルギーニをやめた後、クラウディオは、一体何をしていたのか?

 彼はイタリアでの夢がついえた後、チゼータUSAとして、イタリアから引き上げてきたパーツや金型を使って、新車の製造注文を受けていた。だから、クラウディオと実際に話をして、イタリア人にしては流暢な英語を話すな、と思ったとしても、不思議ではない。

 けれども、チゼータ発表時のクラウディオを知る人の思い出もまた、似たようなものだった。彼は、英語をよく話した、と。ちなみに、チゼータの最初のモックアップが披露されたのは、アメリカ西海岸である。どうしてか。

 実はクラウディオは、ランボルギーニをやめた2年後に、早くも西海岸に移り住んでいた。当初の目的こそ、ランボルギーニの知名度を世界でも有数の金持ちエリア、アメリカ西海岸に広めるためだったのかも知れない。

 結局、彼はこの地で、フェラーリやランボルギーニ、その他イタリアンエキゾチックカーのセールス&メンテナンス拠点を築くことになる。当然、そのビジネスは彼に巨大な富をもたらした。

 もともとクラウディオは、会社でクルマの開発をすることも好きだったが、もっと大きなことをしてみたいという野望も持っていた。

 彼が会社を去る1973年には、ランボルギーニは既に会社組織の体をなくしており、辞めることは必然だったかもしれないが、それを積極的に後押ししたのもまた彼の野望であった。そうでなければ、新天地としてアメリカなど目指さないだろう。

 アメリカで成功を収めたクラウディオ。やがて、自分の野望がひとつのカタチとなって立ち現れてくる興奮を、抑えきれないようになっていく。

【画像】生産台数15台という、貴重なチゼータのディテールをチェックする(12枚)

【2023年最新】自動車保険満足度ランキングを見る

画像ギャラリー

1 2

新車不足で人気沸騰! 欲しい車を中古車でさがす ≫

【NEW】自動車カタログでスペック情報を見る!

最新記事

コメント

本コメント欄は、記事に対して個々人の意見や考えを述べたり、ユーザー同士での健全な意見交換を目的としております。マナーや法令・プライバシーに配慮をしコメントするようにお願いいたします。 なお、不適切な内容や表現であると判断した投稿は削除する場合がございます。

メーカーからクルマをさがす

国産自動車メーカー

輸入自動車メーカー