トヨタ新社長・近健太氏の原点は「電球の間引き」 経理一筋のトップが受け継ぐ豊田章男氏の覚悟と“現場力”
4月にトヨタ自動車の社長に就任した近健太氏が、歴代トップゆかりの地「蓼科」で初会見に臨んだ。経理畑を歩み、豊田章男氏の秘書としてリーダーの覚悟を学んだ近社長。愛車「ノア」を愛する“お父さん”の素顔と、トヨタの最大の武器である「現場力」を重視する新トップの人物像に、自動車研究家の山本シンヤ氏が迫る。
現場が一番輝ける環境を。ブレない現場主義とは
2026年7月18日、長野県茅野市の聖光寺にて、交通安全を祈る夏季大法要が営まれました。
1970年の建立以来、トヨタグループが56年もの長きにわたり、毎年欠かさず“交通安全”の祈りを捧げ続けてきた伝統ある法要です。
そして同日、トヨタをはじめとする自動車メーカーや他業界の企業、そして学政の関係者が一堂に会し、「交通安全の実現」に向けて産官学の枠を超えて真摯に議論を交わす場である、「タテシナ会議」も開催されました。

4月の社長就任後初となるメディア向けの記者会見。
副会長になる佐藤恒治氏から社長の襷を受け継いだ近健太(こん・けんた)氏がその大切な舞台に選んだのは、トヨタグループにとって深いゆかりのあるこの「蓼科」の地でした。
「祈り続けるだけでは事故は減らないが、それでも祈り続けるのは、”神頼み”ではなく”誓い”であり、人・車・インフラが三位一体となり、何が何でも交通安全を実現する」という歴代トップの強い覚悟を継承し、自らもこの地から一歩を踏み出そう…と考えたのでしょう。
その決意の裏には、数字を司る「お金の人」という硬いイメージを覆す、クルマと現場をこよなく愛する熱い血通った人間性と、実直な歩みがありました。
多くのメディアは社長交代で「トヨタはどうなる?」に注目していますが、筆者(山本シンヤ)はその前に、近社長の“人となり”を知りたいな…と。
なぜなら、そこにこそ社長として「トヨタをどうかじ取りしていくのか?」のヒントが隠されていると思ったからです。

近氏は1968年に新潟県で生まれました。少年時代は白球を追いかける野球少年でした。当時、周囲には巨人ファンが多かったものの、へそ曲がりだった少年時代は「アンチ巨人」を貫いていたと言います(現在はもちろん中日ファン)。
中学では卓球部に入部したそうですが、そこで思わぬ壁にぶつかります。
「部活で『坊主頭(五分刈り)にしろ』と言われましてね。どうしても坊主に頭になりたくなかったので、すぐに辞めました(笑)」。なぜ「笑」なのかは…以下自粛。
その後、高校で門を叩いたのが音楽部でした。担当したのはベース。当時はBOOWYが大全盛期で、仲間たちとバンドを組んで学園祭のステージにも立ったと言います。また、意外にも松田聖子さんの楽曲も好んで聴いていたという、音楽の流行に敏感な等身大の青春時代だったそうです。
大学時代からクルマに深くハマり、クルマその物が持つ“楽しさ”や“魅力”に魅せられていた近氏は、将来の仕事として「自動車会社に行きたい」という強い思いを自然と抱くようになります。
ちなみに、学生時代に最初に手にしたクルマは貰い物の他メーカーのクルマでしたが、それも含めてクルマと過ごす時間が日々の楽しさの源でした。
1991年に東北大学を卒業後、トヨタ自動車に入社。トヨタを選んだ一番の理由は、シンプルに「クルマが大好きだったから」という純粋なモノでした。
入社時に最も強く希望していた部署は、「宣伝部」でした。学生時代、当時池袋にあったトヨタのショールーム(アムラックス)で行なわれた採用面接を受けながら、「自分はこういう華やかな場所で、クルマの魅力を伝える仕事をするんだ」となんとなく思い描いていたそうです。
しかし、実際に命じられた配属先は「経理部」でした。新入社員全員が一堂に集められ、1人ずつ配属先を告げられる場で「経理部」と言われた近氏は、当時は経理の仕事がどのようなものかもよく知らず、特に嫌だと思うこともなく、素直にそれを受け止めたそうです。
その後、工場実習やディーラー実習を重ねるうちに、「新入社員で宣伝部に行ける人なんて、ほとんどいないんだな」という現実を徐々に理解していきました。
この頃はバブル崩壊の煽りを受けて景気が悪化。経理部に配属され上司から命じられた最初の忘れられない仕事は、実に泥臭いものでした。
「上司から『立体駐車場の電気が明るすぎるから間引いてこい』と言われました。そこでヘルメットを被って、脚立を持って、1本1本電球を抜いていきました。『これがトヨタの経理の仕事なのか?』と思いながらも、黙々と作業をしたのを覚えています」。
しかし、この経験こそが近氏の原点になっていました。それは何か?「1円、2円の原価低減」を積み重ねる現場の努力を知り、みんなで稼いだお金を絶対に無駄にしない言う“リアル”な数字へのこだわりです。その後も財務部などを歩み、キャリアの大半を経理のエキスパートとして過ごしました。
これまで何人かのトヨタのキーマンにインタビューしてきた筆者ですが、数々の部署を経験してトップに昇り詰める人が多いトヨタにおいて、経理を一筋に歩んできた近氏。人生最大のターニングポイントは、約8年務めた豊田章男社長(当時)の秘書の時代だったと言います。
近氏は当時の自分を「決して良い社員ではなかった」と振り返ります。ヘッドホンを耳にかけながら出社し、偉そうにポケットに手を入れたまま、警備員さんの挨拶にもまともに返さないような“尖った”時期もあったそうです。しかし、豊田章男氏の背中を間近で見た事で、彼の人間性”は”根本から変わったそうです。
「会長(=章男氏)は、どんな時でも、誰にでも絶対に挨拶を欠かさない。そんな道徳的なことも含めて、今思えば“恥かしい”自分の態度を正してくれて、“人”として育ててくれたのは会長だったと思います。今では当時の自分の態度を見たら、絶対に許せませんよ(笑)」
また、秘書として仕える中で、トップの圧倒的な「覚悟」を目の当たりにしました。どんなに苦しい決断であっても、一番悲しむ人の顔を思い浮かべながら、それでも“未来”のために“決断”を下さなければならない。その孤独と責任の重さを間近で学んだこと全てが、近氏のリーダーシップの基礎となっているそうです。
そんな近氏はプライベートで「ノア」を乗り継いできた筋金入りのミニバン愛好家です(少し偉くなってからはアルファードに出世したそうですが)。彼が「ノア」の最高の機能として熱く語るのは、ある機能の事です。
「ルームミラーとは別に後席を確認するための『ミラー』が付いていました。これがあると、後席に座る子供たちの様子が全部見えます。静かになったら『あ、寝てるのかな? 首にシートベルトが巻き付いてないかな?』などなど。あれは本当にお客さんのことを考えた、最高の装備だなと感動しました」
現在はGRヤリスに乗っていますが、サーキットを速く走るクルマだけでなく、家族で出かけるお父さんがストレスなく運転でき、子供たちが安全に過ごせるクルマを誰よりも愛しています。
この普通の「家族の幸せ」に寄り添う視点こそが、近社長の“クルマ愛”なのでしょう。そういう意味では、豊田氏や佐藤氏のクルマづくりは「走りの味」を追求するものですが、近社長のクルマづくりは、家族を優しく包み込む「お父さんの味」なのかもしれません。
とは言うものの、「ドライバーが、そんなにストレスを感じなくてもスムーズに運転できること。ハンドルを切ったときに、手の平にしっかりとクルマの挙動や路面の反力が伝わってくるような、そんな運転の楽しさがあるミニバンが理想ですね」と語るように、内に秘めた“アツさ”は変わらないようです。
ちなみに2ヶ月に1回の運転訓練は今も続けているそうです。それは単に技術の向上だけが目的ではなく、自分が必死に練習することで、そこに現場の凄腕ドライバーや技術者たちが集まり、「実は現場でこんな困りごとがあって……」と本音を話してくれるのが嬉しいからです。要するに、リアルなコミュニケーションの場でもあったのです。

社長に就任した今、最もやりたいこと、 そして守り抜きたいこととして掲げているのは何か? 近氏は自嘲気味にこう語ります。
「私には、クルマの異常を感じるセンサーもないし、図面も書くことができません。だからこそ、自分にできることは、現場で一生懸命やっている各々のメンバーが一番輝ける環境を整えてあげることだと思っています」。
経理出身の人間は、ともすれば画面の数字だけを追いがちですが、近氏は「現場が発する強いエネルギーに触れなければ、本当のカイゼンはできない」と考え、自ら足を運んでいるそうです。
現場のメンバーが何に困り、何が障壁になっているのかを、自分の目で見て耳で聞き、それを取り除いてあげる事が、トップの“役割”だと。これは豊田氏の考えと全く同じです。
「とにかく現場のメンバーを応援したい。なぜなら、その『現場の力』こそが、『トヨタの強さ』そのものですから」。
新潟の野球好きだった少年は、泥臭い経理の現場を歩み、偉大なトップの背中を見つめ、今トヨタのかじ取りを任され、誰よりも現場の仲間を大切にするリーダーとなりました。
近氏の温かく、そしてブレない「現場主義」が、これからのトヨタをより強く、より愛される企業へと導いていくと信じています。
Writer: 山本シンヤ
自動車メーカー商品企画、チューニングメーカー開発を経て、自動車メディアの世界に転職。2013年に独立し、「造り手」と「使い手」の両方の想いを伝えるために「自動車研究家」を名乗って活動中。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。







