まさかのトヨタ「セリカ復活!?」 2年&4000万円かけて2023年にお披露目! 優勝マシン復活の背景とは
SNSで「セリカ復活」が話題となっていますが、実際に2年の月日と4000万円の費用をかけて完全復活を遂げた実車が東京オートサロン2023でお披露目されました。どのような背景で復活を遂げたのでしょうか。
まさかの…セリカ復活!? 4000万円掛けた思いとは
トヨタがかつて販売していた「セリカ」が復活するのではないかと、注目が集まっています。
そんななか、すでに「セリカが完全復活」を果たしていたといいますが、どのような流れで復活を果たしたのでしょうか。
一部SNSでトヨタの新社長となる佐藤恒治氏の夢が「人生の夢はセリカ復活」と投稿されたことで話題となっていました。
そんな意外なカタチで話題となったセリカが、初代が1970年に登場しました。その後、2代目(1977年)、3代目(1981年)、4代目(1985年)、5代目(1989年)、6代目(1993年)、7代目(1999年)と約36年の歴史を経て2006年4月に生産終了となっています。
そんなセリカですが、5代目にフルタイム4WDを採用した「セリカ GT-FOUR」を設定。
さらに快適装備を省いてクロスレシオのマニュアルミッションを採用したラリー競技ベース車「GT-FOURラリー」もラインナップされました。
1995年には、セリカ GT-FOUR(ST185)がサファリラリーで総合優勝を果たしています。
そんなラリーに縁の深いセリカを復活させた日本人がいます。
その人物は、当時トヨタのワークスチームTTE(Toyota Team Europe)のドライバーとして活躍していた藤本吉郎氏(現・株式会社テイン専務取締役)で、2年の月日と4000万円の費用をかけて完全復活させました。
なお、藤本氏は現在までにサファリラリーで総合優勝をおさめた唯一の日本人ドライバーでもあります。
藤本氏がラリーを始めたのは1980年代の初めでした。
そして現在も社長をつとめる市野諮氏とともにショックアブソーバーメーカーのテインを設立したのは1985年のこと。
当時全日本ラリー選手権などですでに活躍していた2人ですが、ラリーを自分達の理想チーム体制や競技車両選択、技術開発を継続続けるためにテインを設立したといいます。
「1980年代は耐久性がある良いショックアブソーバーが存在しませんでした。
神奈川の地方選手権でも一晩走ったら壊れてしまうレベルです。
そこで、ラリーのような過酷な条件下での使用に耐えるもっといいものを作りたいという思いからテイン(TEIN : TEchnical Innovation 技術革新)を設立しました。
自分たちで良いショックアブソーバーを作って商売して稼いだお金で思いっきりラリーをやりたい、そんな思いで始まりました」(藤本吉郎氏)
テインの社長や専務自らが世界最高峰のラリーに参戦して得てきた知見を基に開発がおこなわれてきたショックアブソーバーは世界で広く支持される「メイドイン横浜」の製品に成長しました。
市場シェアは日本50%、北米25%、中国25%、アジア20%、グローバル(世界)15%。
北米ではとくに、「コイルオーバー」(=車高調、車高調整式サスペンション)のトップブランドとして日本をしのぐ人気があります。
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藤本氏は創業からわずか2年後の1987年には「チームいすゞ」として「ジェミニJT150」で念願の海外ラリー「香港・北京ラリー」に挑戦。
1989年には初めての「WRCニュージーランド ラリー」をいすゞ「ジェミニJT190」で総合28位クラス2位の戦績を収めました。
いすゞ(ジェミニ)、日産(パルサーGT-R)、三菱(ランサーEVO)で各自動車メーカーサポート受けた、TEIN Sport(テイン自社ラリーチーム)として活躍した藤本氏がトヨタのチームに抜擢されたのは1993年の終わりころ。
TTEのあるドイツ・ケルンに活動拠点を移し、1994年から1995年の間にTTEのワークスドライバーとして。
1996年から1998年はTTEサテライトチーム(正式ワークス支援チーム)TEIN SportとしてセリカGT-FOUR(ST185/ST205)、カローラWRC(AE111)と共に最高峰ラリーに参戦。
1995年には5カ月にもおよぶテストやレッキといった準備をおこない参戦したサファリラリーでついに総合優勝を果たします。
このほか、インドネシアや香港・北京、ニュージーランドやオーストラリアで開催されたWRCやAPRCでも戦績を収め、1998年にはFIA Asia Pacific Championship(APRC)で日本人では篠塚健次郎に次いで2人目のシリーズチャンピオンに輝きました。