トヨタや日産が国内の「新車」を鉄道貨物で輸送!? かつて「クルマ専用」の貨物列車があった!【鉄道150年】
専用の車運車による輸送のピークは1972年! 最後まで続いた「日産」も廃止へ
国鉄の自動車輸送は、1972年にピークを迎えます。
この頃には輸送基地も29か所を数え、国内における乗用車生産台数の3割にあたる約80万台が、鉄道によって運ばれるほどでした。
しかし翌年からは、急に自動車の輸送量が減少に転じます。
この頃の国鉄で相次いだ労働争議によるストライキ頻発や、相次ぐ運賃値上げにより、自動車メーカーが鉄道への依存を見直し、船舶輸送やキャリアカーでの輸送を始めたためでした。
新車の輸出が増加して、国内の輸送量が減少したことも要因でした。
鉄道による自動車輸送の黄金期が、わずか数年だったのは意外です。
衰退は数字を見ても明らかでした。
各地の基地は順次閉鎖、列車本数・貨車の使用回数も年々減っていき、ピーク時の224万トンに比べ、1977年には75万トンまで減少しています。
用途が限定されているク5000形は他の貨物輸送への転用も難しいため、各地で留置されるようになりました。
しかし国鉄は、この厳しい状況の中、1978年に宇都宮貨物ターミナル駅(栃木県)から本牧埠頭駅(神奈川県)間で「ニッサン号」の運転をスタートしています。
その名の通り、荷主は長年の顧客である日産で、栃木工場(上三川町)で生産された輸出向け小型車「パルサー」をメインに運んでいました。
1981年にはそれまで16両だった編成を21両に増やし、輸送量を増強しています。
日産 栃木工場と本牧の輸出積出し港を結ぶ「ニッサン号」は1985年にいったん廃止されるも、翌年には復活しています。
1987年には国鉄が分割民営化を受けてJRとなり、貨物部門はJR貨物が引き継ぎました。
この頃、ク5000形は大幅に廃車が進み、JRが引き継いだ両数はわずか64両に留まっています。
なおJR化後もク5000形を使って自動車輸送を続けたのは日産のみでした。
JR化後は、ク5000形の塗装を赤と青、もしくは赤、青、白のトリコロールカラーに変更。後者は、日産をイメージさせるカラーでもありました。
1989年には、栃木工場で生産する高級車「インフィニティQ45」の輸送も可能なように改造を実施しています。
また、輸出以外の「セドリック」「グロリア」や、さらには栃木工場以外の生産車の輸送も全国的に行われたため、車運車ク5000形が足りなくなり、廃車されず留置されていた車両の一部を復活。
最終的には合計93両が用いられました。
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鉄道による自動車輸送は、1992年には2.4万台を運びましたが、専用の車運車から専用コンテナ(カーパック)による輸送へ移行したこともあり、1996年にはク5000形による自動車輸送は完全に終了。全車両が廃車され、形式消滅しています。
なお日産 栃木工場からの新車の鉄道コンテナ輸送は、高速道路の整備や積出し港の変更などがおこなわれたことで、2010年頃には終了しています。
これからは貨物輸送が見る直される時代が来ると思います。
原因は運転手の減少、エネルギー問題、速達性を求められます。
鉄道は海運を内陸に替える手段でした。
旅客輸送は減少していきます、これがしおめです。新幹線を利用するチャンスです。
道路や港湾の整備は税金により行われる。一方鉄路は鉄道会社(JR)が主となる。
このインフラ投資の費用負担の差異が輸送コストにあらわれる。鉄道輸送はなかなか恵まれない。