悲運のスーパーカー マセラティ「ボーラ」誕生物語 ラグジュアリースポーツの開祖は生誕50周年
リアルスポーツ改め、ラグジュアリー志向に変更した「ボーラ」
「ティーポ117」ことボーラは、スチール製モノコックのメインフレーム+鋼管製サブフレームという、1960年代後半以降のマセラティの常道というべきシャーシに、マセラティとしては初となる4輪独立(ダブルウィッシュボーン)のサスペンションを組み合わせた。ミドシップであることを除けば、当時のスポーツカー設計のセオリーに忠実なもので、いかにも堅実なアルフィエーリ作品であると思わせる。
●ジウジアーロのスケッチが物語るボーラの変節とは?
一方、スタイリッシュかつエレガントに仕立てられた2座席クーペボディは、独立して間もなかったジョルジェット・ジウジアーロ氏が率いる「イタルデザイン」社の作品である。初代ギブリも「カロッツェリア・ギア」時代のジウジアーロ作品なので、デザイナーはそのまま踏襲されたことになる。
基本的なプロポーションはギブリと同じくウェッジシェイプながら、ミドシップゆえに縮められたノーズは、より量感に富む形状となった。
またV8エンジンを収めるテールはより長く、マッシブなスタイル。加えて、白銀に輝くステンレス製ルーフパネルやリアクォーターまで伸ばされたリアのグラスエリアが、モダンかつ上品な印象を与えていた。
しかし、そのイタルデザイン社が2021年春に公式facebookページにて初公表した半世紀前の開発スケッチをみると、当時のマセラティとジウジアーロの間で少なからず葛藤があったことがうかがわれる。
生産型ボーラのホイールベースは、2600mmである。それに対して、V型12気筒エンジンを縦置き搭載する2台、カウンタックのホイールベースは2450mm(「LP5000QV」以降は2500mmに延長)、180度V12のフェラーリ「BB」は2500mmに収められていた。それら12気筒のライバルに対して、生産型ボーラは前後長の短いV8エンジンを搭載していたにもかかわらず、明らかに長いホイールベースが与えられたことになる。
ところが、ジウジアーロによって描かれたイタルデザインのスケッチには、ボーラが当初「2450mm」のホイールベースを想定していたことが、明らかに記されている(描かれた時期については不明)。
この時代のマセラティ首脳陣は、ギブリのマーケットを直接受け継ぐ2座席グラントゥーリズモとしての役割は、翌1972年に誕生する「カムシン」に担わせようとしていたという。そして開発当初のボーラには、ランボルギーニ・ミウラとガチンコ対決ができるような、リアルスポーツカーとしてのキャラクターが追求されていたものとも考えられる。
ところが、そのリアルスポーツ的コンセプトには、当時の親会社だったシトロエンが難色を示したようだ。
カムシンでは、シトロエンの代名詞でもある油圧システム「ハイドロニューマティック」が4輪ディスクのブレーキ制御やポップアップ式ヘッドランプ昇降機構、パワーウィンドウの作動、そしてシートの調節などに導入されることになっていたのだが、このシステムの優位性を高級車マーケットでもアピールしたいと考えたシトロエン首脳陣は、ミドシップ創成期にあった当時、より世間の耳目を集めやすいボーラにも、ハイドロニューマティック機構を導入したのである。つまり、快適かつ安楽、そして画期的なスーパースポーツを求めたと考えられるのだ。
結果として、イタルデザインはホイールベースを延ばしてコンフォート志向としたよりグラマラスなスタイリングの代案を用意し、それが生産型ボーラの基礎となった。
こうして、紆余曲折ののちにマセラティ初のミドシップ・ロードカーとなったボーラだが、そのセールス実績はけっして芳しいものではなかった。
ギブリがヒットを収めた1960年代のマセラティは、ライバルたちと比べてスペックでは見劣りしても、こけおどしではない実質的な高性能、スーパーカーとしては異例の実用性、極めて高度なリファインメントやボディ内外のクオリティなどの魅力が相まって、充分に太刀打ちできていたといえよう。
ところが「スーパーカー」ないしは「エキゾティックカー」というジャンルが確立され、どんどんアグレッシブさが求められるようになっていた1970年代のボーラでは、やはりカウンタックやフェラーリBBのごとき12気筒エンジンを持たないこと、あるいは、上品ながらやや迫力に欠けるスタイリングがあだとなったとする見方もあるようだ。
加えて、ボーラの先進性の象徴となったハイドロシステムは、システマティックに大量生産されたシトロエンでこそ大きな問題を引き起こすことはなかったものの、まだ手作りに近かったマセラティでは品質のバラつきが多く、特に初期にはオイル漏れなどのトラブルが頻発したといわれている。
さらに、1973年に第四次中東戦争が勃発したことを機に「第1次オイルショック」が発生。大排気量スポーツカーの市場が急速に冷えたことも相まって、結局1978年に生産を終えるまでにラインオフした台数は、1149台が製作されたギブリの半数以下、530台に終わってしまう。
それでもアルフィエーリとマセラティ、そしてイタルデザインが、新時代のミドシップGTを世に送り出したという点においては、その歴史的意義を認めたいとも考えるのである。
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