5分で分かる、アストンマーティンのモータースポーツの歴史とは
1913年にライオネル・マーティンとロバート・バンフォードがロンドンに小さなワークショップを開設して以来、107年の歴史を紡いできたアストンマーティンが、モータースポーツに参戦することは、アストンマーティンの哲学やアイデンティティと切っても切れない関係にある。そこで、2021年に60年を超える沈黙を破ってF1世界選手権に復帰するアストンマーティンの、華麗なるモータースポーツの歴史を振り返ってみよう。
モータースポーツにおけるアストンマーティンの歴史
2021年に60年を超える沈黙を破って、アストンマーティンがF1選手権に復帰することが決定している。マシンのカラーリングは、伝統のブリティッシュグリーンがメインカラーになるだろうというのが大方の予想だ。
現在、アストンマーティンといえば、映画『007シリーズ』のイメージを持つ人が多いだろうが、実はレースの世界でも数々の素晴らしい戦績を残したメーカーでもある。そこで、現代にまで続くアストンマーティンの華々しいレースの歴史を紐解いてみよう。
●1920年代のアストンマーティン
アストンマーティンの共同創設者であるライオネル・マーティンは、誕生したばかりのこのスポーツカー・メーカーの指揮をとっていた初期の頃から、パートナーのロバート・バンフォードとともに、グランプリレースに参戦して名声を得ることを夢見ていた。
まずアストンマーティンは英国のヒルクライムレースで頭角を現し、ライオネル自身もレーサーとして自ら製作したマシンのステアリングを握っていた。とくにグランプリレースで卓越したパフォーマンスを披露し、ヨーロッパに自身の名とアストンマーティンの名を轟かせることになる。
「狂騒の20年代」が始まる頃、マーティンは、才能溢れる若きレーシングドライバー、ルイス・ズボロウスキー伯爵を紹介され、レースにおけるアストンマーティンの夢が現実に向かって大きく動き出すことになる。
裕福なポーランド貴族であるズボロウスキー伯爵と米国人女性の相続人は、飽くなきスピードへの情熱を持っていたのだ。億万長者であったズボロウスキーには、自由に使える資金を豊富に持っていただけでなく、ドライバーとして、アストンマーティンの初期型サイドバルブ・オープンホイール・レーサーを熟知していいたため、同時に2台のレーシングマシンの製作をアストンマーティンに依頼し、レースの世界へと乗り出したのだ。
その後、ライオネル・マーティン率いるチームとズボロウスキーは、1922年のマン島TT(ツーリスト・トロフィー)に参戦すべく、新たに2台のマシンを製作する計画を立てた。ズボロウスキーは、このプロジェクトに約1万ポンド(当時の「ひと財産」という意味)を投入して、マシンだけでなく、完全に新しい16バルブDOHC4気筒レーシングエンジンの開発もおこなった。
アストンマーティンの車両重量750kg、最高速度は85mph(約136km/h)を誇る初代グランプリカーには、こうして開発された最高出力約55bhp/4200rpmの1486ccユニットが搭載された。
2座のシートが装着されていたのは、当時のレギュレーションに従って、ライディングメカニックを乗せるためである。ライディングメカニックは、メカニックとしての仕事だけでなく、ハンドポンプを使用して燃料タンクに圧力をかける役割も果たしていたのだ。
いまでは信じられないことだが、当時のレーシングチームは、レースが開催される会場まで、マシンを自走させて行くのが普通だった。
また、エンジン自体にも注目に値するストーリーが存在している。アストンマーティンは、1922年まで複数年にわたってこのエンジンを製作し、大きな成功を手にした。
するとライバル勢(プジョー、ブガッティ、A.L.F.A.など)は、レースおよびスピードレコード用に大排気量の16バルブ・パワーユニットを新開発したのだ。このようにアストンマーティン・パワープラント創世記には、さまざまな逸話が残っているのだ。
ここでズボロウスキー伯爵をクローズアップしてみよう。彼にはクライブ・ギャロップという良き友人であり、ライバルがいた。このギャロップは、プジョーのエンジニアであるマルセル・グレミヨンの知り合いでもあった。
この才能溢れるフランス人エンジニアは、その当時、フランスの自動車メーカー、バロットで仕事をしていた偉大なエンジンデザイナー、アーネスト・ヘンリーの弟子であった。
ある日グレミヨンは、ヘンリーに3.0リッター・バロット・エンジンの詳細について訊ねたことがあった。この時ヘンリーは、ただエンジンの図面をふたつに引き裂いて渡しただけであったが、グレミヨンはこの引き裂かれた図面にバンフォード&マーティンのシングルカム、16バルブエンジンの下半分を繋ぎ合わせ、後にこれが大きな宝をもたらすことになる。
引き裂かれた図面を基にヘンリーが開発した3.0リッター・ユニットは、バンフォード&マーティン1.5リッターSOHC16バルブエンジンへとその姿を変えたのである。
●アストンマーティンのグランプリデビュー
アストンマーティンは、「TT1」、「TT2」と呼ばれるレーシングマシンを開発して、1922年6月22日のマン島TTに参戦する予定だったが、準備が間に合わず、日程を変更して、7月15日にストラスブールで開催される2.0リッター・フランスGPに照準を合わせ直すことにした。これが、アストンマーティンにとってのグランプリレースへのデビュー戦となるのである。
TT1のステアリングはズボロウスキーが握り、その隣にはレン・マーティン(ライオネルとの血縁はない)がメカニックとして搭乗した。TT2のクルーは、ドライバーにギャロップ、メカニックにH.J.ベントレー(自動車メーカーのベントレーとは無関係)という布陣であった。
しかし、彼らが開発したエンジンは排気量が小さく、ライバルと比較してパワー不足は否めなかった。さらに、早急な開発作業に加え、バラストの搭載が義務づけられたために、2台ともエンジントラブルでリタイアという結果に終わってしまった。
しかし、このレースでのリタイアは、まだ船出したばかりのチームにとって、非常によい経験となった。ケンジントンのアビンドンロードに本拠を構えるチームは、このようにしてグランプリ・アドベンチャーの第一歩を踏み出したのである。
「TT」は、当初こそ開発不足を露呈したものの、その後に熟成され、ヴィラフランカ・サーキットで開催された1922年のペーニャ・ラインGPで2位に入るなど、複数のレースで表彰台を獲得。チームは、その翌年に開催されたペーニャ・ラインGPでも2位でフィニッシュし、同年のブローニュGPでは3位でチェッカーを受ける快挙を遂げた。
このままグローリーロードへと駆け上がっていくかに見えたアストンマーティンだったが、1924年に転機が訪れてしまう。最大のスポンサーであるズボロウスキーがレース中のアクシデントにより命を落としてしまったのだ。
彼の早すぎる死により、エースドライバーを失ったアストンマーティンの第1期レースプログラムが終焉を迎えることになる。アストンマーティンのレーシングマシンを使用したプライベートチームは、数多くの成功を収めていたが、アストンマーティンが本格的にグランプリシーンに復帰するまでには、この後20年の歳月が必要であった。
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