5分で分かる、アストンマーティンのモータースポーツの歴史とは
ル・マンを制したアストンマーティン以外に注目すべきマシンとは
1950年代は、アストンマーティンにとってエキサイティングな時期となった。1947年にアストンマーティンを買収し、同年にラゴンダ・ブランドを追加したデイヴィッド・ブラウン卿は、英国流スポーツカーを着実に開発、その魅力を大いにアピールすることに成功したのである。
●デイヴィッド卿のエキサイティングな1950年代
デイヴィッド卿は、アストンマーティンの商業的な成功にはモータースポーツが重要であると認識し、1955年に、世界スポーツカー選手権だけでなく、当時はまだ新しいカテゴリーだったF1世界選手権でも優勝することができるマシンを作るという野心的な計画を打ち出した。
アストンマーティンの歴史を振り返ると、ル・マンを制した「DBR1」やその後継マシンである「DBR3S」に注目が集まりがちだが、初期のシングルシーターである「DP155」によるプログラムは、アストンマーティンにとって貴重な学習の場となり、50年代後半のGPマシンの開発に繋がっている。
このプログラムと並行して、デイヴィッド卿は、新しいエンジンや新しいロードカー開発にも着手し、「DB4」が誕生した。
その後、レーシングカーのアストンマーティン「DBR4」が開発されることとなる。このマシンは、1957年にテストが開始されたものの、デビュー戦は1959年のBRDCインターナショナル・トロフィーであった。同イベントは、F1のレギュレーションに則って、同年5月のシルバーストーンで開催された。
このレースには、2台のアストンマーティンが参戦し、ロイ・サルバトーリがル・マン24時間レースでドライブしたカーナンバー1が、ジャック・ブラバムのクーパー・クライマックスT51に次ぐ2位でチェッカーを受けている。
2493cc直列6気筒ドライサンプのRB250エンジンは、DBR1スポーツカー・エンジンと同一の基本デザインを採用していた。このパワーユニットを搭載する「DBR4/250」は、スペースフレーム・シャシのシングルシーターで、最高出力は256bhp、車両重量は575kgであった。
サルヴァドーリやキャロル・シェルビーなど、スタードライバーがステアリングを握ったものの、フロントエンジンのDBR4は、最新ミッドシップのライバルマシンの後塵を拝するしかなく、DBR1がスポーツカー・シーンで見せたような成功をF1で再現することは叶わなかった。
後継マシンの「DBR5」もデビュー戦で成果を収めることができず、アストンマーティンは、1960年にシングルシーターの最高峰クラスから撤退するに至った。
●アストンマーティンの新たな幕開け
近年のアストンマーティンは、50年にも及ぶブランクを経て、レッドブル・レーシングのタイトルスポンサー兼テクニカル・パートナーとしてGPシーンに復帰している。
両社のパートナーシップはさらに発展し、驚異のハイパーカー、アストンマーティン「Valkyrie(ヴァルキリー)」として結実した。このハイパーカーは、2021年から生産が開始される予定だ。
英国のラグジュアリー・ブランドは、アストンマーティンF1チームとして、2021年シーズンからの参戦に向けて現在鋭意準備中だ。
アストンマーティン取締役会会長のローレンス・ストロールは、次のように述べている。
「アストンマーティンの名前がF1に復活し、カラフルでダイナミックなスポーツの歴史に再びその名を刻むことになりました。英国の偉大なスポーツカー・ブランドで仕事をする私たちにとって、本当にエキサイティングな瞬間が訪れます。
F1世界選手権は、アストンマーティンにふさわしい場所です。そこは、私たちのブランドがいるべき場所でもあり、アストンマーティンのレースの歴史における新たな章は、世界中のアストンマーティン・ファンだけでなく、F1ファンの方々にとっても、非常にエキサイティングなものになるでしょう」
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