フェルッチオが愛したランボルギーニ「ハラマ」誕生50周年、その逸話の真意とは?
フェルチオが愛したのは、「ミウラ」だった!?
ところでランボルギーニ・ハラマといえば、しばしば語られるエピソードがある。
曰く「フェルッチオ・ランボルギーニが理想のランボルギーニとしてもっとも愛したのはハラマだった」。
とくに日本国内の自動車専門誌では、かなり以前からしばしば取り上げられており、正直にいうと筆者自身もこの説を完全に信じていた。
●フェルッチオがもっとも愛したランボルギーニ説の真偽は……?
ところが今から約5年前となる2016年2月に、エミリア・ロマーニャ州ボローニャ近郊、フェルッチオ・ランボルギーニが最初のトラクター工場を構えたという小村、フーノ・ディ・アルジェラートに1995年から開設された「ムゼオ・フェルッチオ・ランボルギーニ(Museo Feruccio Lamborghini)」を訪ね、当時同館の副館長であったフェルッチオの甥、ファビオ・ランボルギーニ氏にインタビューした際に、その定説があっさりと覆されてしまったのだ。
ムゼオ・フェルッチオ・ランボルギーニ館内に展示されているのは、ランボルギーニ家のコレクションである。ファビオ氏は1台1台をていねいに解説してくれた。そしてハラマ試作車の前に立った時に、筆者が上記の定説について伺うと、彼はニヤリと笑いながら答えた。
「よく質問されるエピソードですね。でもフェルッチオ伯父は、しょっちゅう『ジャマラ』と言い間違えていましたよ」
ここで前提として説明しておかねばならないのが、「Jarama」という単語の読み方についてである。「ハラマ」と読むのは元来のスペイン語に準拠したもので、通常のイタリア語ならば「ヤラマ」。そしてファビオ氏がいうには、独自の方言があるエミリア・ロマーニャ州では「ジャラマ」と読まれることもあるという。
なのにフェルッチオは、ハラマでもジャラマでもなく「ジャマラ」と間違えて読んでしまっていたのは、実はこのクルマにあまり関心が無かったからだというのだ。
それでは、本当にフェルッチオがもっとも愛したランボルギーニ車は? という筆者の問いかけに対して、ファビオ氏は即断即答で応えてくれた。
「もちろんミウラです」
実に明快な返答だったものの、ミウラといえば思い出されるのは、フェルッチオがこのモデルには冷淡だったという、もうひとつの定説である。
もともと自社の生産モデルには、上質かつ古典的なグラントゥーリズモであることを望んでいたフェルッチオ自身は、当時としては超絶的にエキセントリックなミウラに明らかな難色を示し、あくまで黙認程度の認識だったともいわれている。
そんな彼にとって、ゴージャスなFRグラントゥーリズモの本分をさらに昇華させようと試みたハラマが「理想的」と映ったのは当然のこと。そう、我々は認識していた。
しかしファビオ氏は、こう続けた。「フェルッチオ伯父は、いつのころからかミウラの素晴らしさを認め、自身のプライベートカーとしても愛用するようになりました。そしてランボルギーニ・アウトモービリ社を手放し、リタイア後にぶどう農場とカンティーナ(ワイン醸造所)を構えた際には、自身のワインに『ミウラ』と名づけたくらいに、ミウラを誇りにしていたようです」
この回答に肩透かしを食らったかのように、落胆の色を隠せなかった筆者の表情に気がついたのか、ファビオ氏はフォローするように続けてくれた。
「ハラマは素晴らしいクルマでしたが、このクルマを理想の1台と評していたのは設計者のパオロ・スタンツァーニや、テストドライバーのボブ・ウォーレスだったと記憶しています。でも、フェルッチオ伯父はとても人に優しく、とくにパオロやボブのことを私たち身内と同じように愛していましたから、彼らの意見を尊重するために、そのまま肯定していたんだと思います」
この記事を書き進めているさなかに、ランボルギーニ・アウトモビリ本社から、ハラマの50周年を記念した公式リリースとオフィシャルフォトが配信された。
それは、現在のランボルギーニも「ハラマ」という理想主義的モデルを埋もれさせたくないという強い意思の表れであると、筆者には感じられたのである。
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