ホンダ新型「N-ONE」の先祖を襲った事件とは!? 名車「N360」を振り返る
N360の欠陥車騒動とその後の進化とは
いまでは当たり前になっている「リコール制度」は、1969年6月に運輸省(現在の国土交通省)の指導で国内に導入されました。
アメリカで販売された日本車が欠陥車だと報じられたことがきっかけになり、日本でも対策が必要となったためです。
アメリカでは自動車の安全性について活発な消費者運動を展開する「自動車安全センター」という組織があり、日本でも1970年5月に「日本自動車ユーザーユニオン」(以下、ユーザーユニオン)という消費者組織が発足。
この組織にN360が取り上げられ、同年8月、N360が関係する死亡交通事故とクルマの欠陥性との因果関係を巡り、遺族に代わってユーザーユニオンが本田宗一郎氏を、東京地検特捜部へ殺人罪で刑事告訴する事態となりました。
しかし、鑑定の結果、事故とN360の欠陥性との因果関係を強く結び付けるものはないとされ、不起訴処分が決定。N360はリコールには至りませんでしたが、ホンダは社会的責任を考え、被害者家族への見舞金として8000万円を支払うことで和解しました。
一方、その後もユーザーユニオンから巨額な賠償要求が続いたことから、ホンダは逆にユーザーユニオン側を恐喝で告訴し、最終的には最高裁で争われ、15年後の1987年1月に代表者2名の有罪が確定。
ホンダは裁判には勝ちましたが、そこに至るまでのイメージダウンとダメージが著しく、N360の販売台数は急激に落ち込み、軽自動車市場全体が次第に衰退していくきっかけとなったといわれています。
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こうして、N360を取り巻く状況は厳しくなりましたが、クルマとしての進化は続いていました。
大きなトピックスとして、1968年にはN360をベースに600cc空冷直列2気筒SOHCエンジンを搭載した「N600」が登場。1969年にはハワイに輸出され、1970年にはアメリカ本土でも発売し、台湾ではノックダウン生産がおこなわれました。
N360では1969年1月に初のマイナーチェンジがおこなわれ、外観はほとんど変わりませんでしたが、インパネまわりの意匠が変更されます。
そして1970年1月にはフロントフェイスを一新するビッグマイナーチェンジがおこなわれ、車名も「N III 360」と命名。
ほかにもN III 360ではトランスミッションが現代的なフルシンクロとされ、室内の静粛性の向上や空調の改善、前席フルリクライニングシートの採用などがおこなわれ、快適かつスムーズな走りへとグレードアップしました。
また、1970年にはN360をベースとした派生車で、軽自動車初のスペシャリティカーの初代「Z」が登場。ボディはスタイリッシュな2ドアクーペのみとされ、特徴的な形状のリアガラスハッチから「水中メガネ」の愛称で呼ばれました。
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N360シリーズは、1970年9月には生産開始43か月で生産累計100万台を達成するほどの人気でしたが、1971年6月に水冷エンジンを搭載した「ライフ」の登場によって販売を終了。
このライフをもって、ホンダは一時的に軽自動車市場から撤退しますが、1985年に初代「トゥデイ」発売によって軽自動車市場へ復活を果たし、いまに至ります。
53年前にデビューしたN360から現在のN-ONEは、比べものにならないほど進化していますが、手軽な乗り物という根底は変わっていません。
ちなみに、車名の「N」の由来は「Norimono」です。
N360のエンジンは元々バイクのエンジンでしょう。