元祖スーパーカー、ランボルギーニ「ミウラ」誕生のヒミツ【THE CAR】
生まれながらにしてタイムレスなデザインだったミウラ
気を良くしたフェルッチオは、このクルマの市販化を急がせた。スタイリングはベルトーネに任されたが、チーフデザイナーの席に座っていたのは、弱冠27歳のマルチェロ・ガンディーニで、ジョルジェット・ジウジアーロの後任としてその席に座ったばかりであった。
いかに天才マルチェロであっても、(後の)巨匠が描いた一連のベルトーネ・デザインをすぐさま変更するわけにはいかない。
彼はベルトーネテイストを充分理解し、それを取り込みつつ、50、60年代の美しきイタリアンベルリネッタスタイルを、最新のミドシップレーサーに融合させるエクステリアデザインを描ききった。
それが、ミウラである。
真横から見ると、それはとうてい、ミドシップカーには思えない。どう見ても、FRクーペである。ただし、恐ろしく低いボンネットが、エンジンの存在をアピールしない。それこそが、今となってはミウラの美の源だ。
しかし、ミウラのデザインには新鮮みがない、とマルチェロ自身は語っていた。カウンタックに代表されるその後のガンディーニデザインと、ミウラの雰囲気がまるで違うことの理由がそれで分かる。
最初の仕事を、彼はある意味、そつなくこなしたのだった。
その結果、生まれながらにしてタイムレスとなったベルリネッタデザインのミウラは、カウンタックのデビュー時こそ〈古くさい〉と見放されたように思えたが、次第に歴史の名作として、その価値を高めていくことになる。
そして、ミウラのいた時代の歴史こそ、ピュアランボルギーニ史であり、そこにボクは重苦しさを感じるのだ。
ミウラの誕生は、結果的にランボルギーニをいまあるスーパーカーブランドの方向へと導いたが、同時に、フェルッチオの自動車ビジネス熱を徐々に冷ましてしまうことになる。
それは、あまりにも挑戦的で急ぎすぎたミウラというクルマに、生産技術も、顧客の心構えも、まるでキャッチアップできなかったからだと思う。
ジャンパオロは、ミウラを人生でもっともすばらしいロードカー設計だったと述懐したが、いみじくもこういった。あんなことは2度とできない、許されない、と。
様々な想いが詰まっている言葉であろう。要するに、彼が理想としたことと、現実になったことのギャップが、今の世界では許されないくらいのレベルで、ミウラには存在していたということではないか。
つまり、ミウラの美しさは、未完成であることの脆さや儚さの上に成り立っている、と。そして、そのことを改めようとする歴史が、S、SVへの進化を促し、J(イオタ)なる伝説を生み出すことにもつながった。
そのプロセスにおいて、フェルッチオは確実にカービジネスへの情熱を失っていったはずだ。
彼はただ熱狂的なカーマニアではない。同時に冷静なビジネスマンでもあったはずだ。なぜなら、それは(たとえばトラクタービジネスと比べて)あまりにも手離れが悪く、手間がかかり、儲からなかった。
純ランボルギーニ時代のすべてが、ミウラ3世代のあいだで閉じているのだ。だから、ミウラの歴史は重苦しい。カウンタックは、次のランボルギーニ時代の主役でしかなかった。
ミウラは、猛牛の光と影である。
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●LAMBORGHINI MIURA P400
ランボルギーニ・ミウラP400
・生産年:1966−1972年
・年式:1968年
・総排気量:3929cc
・トランスミッション:5速MT
・最高速度:280km/h
・全長×全幅×全高:4360×1780×1080mm
・エンジン:V型12気筒DOHC
・最高出力:350ps/7000rpm
・最大トルク:37.5kgm/5100rpm
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●取材協力
魔方陣 スーパーカーミュージアム
・所在地:栃木県栃木市野中町553
・営業日:水曜日
・営業時間:10:00~18:30
・TEL:0282-20-5521
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