元祖スーパーカー、ランボルギーニ「ミウラ」誕生のヒミツ【THE CAR】
元祖スーパーカーであるランボルギーニ「ミウラ」は、いかにして誕生したのか、そして開発メンバーは当時のことをどのように思っているのか。自動車ライター西川淳氏が、開発者であるジャンパオロ・ダラーラなどへのインタビューなどから紐解く。
裸のミウラが、世界中のミリオネラの心をつかんだ
今さらランボルギーニ「ミウラ」のことを書くのは、はっきりいって、とても難しい。できれば、マニアの皆さんお好きな解説を自分で入れこんでください、といいたいくらい。スペース空けておきますので……。
冗談ではない。本気だ。それほど、ミウラに関しては語り尽くされてきた。何を書いても、それは繰り返しになってしまう。
試乗をして書いたとしても、間違った発見こそあれ、埋もれた真実を引きずり出すことは難しいだろう。
「ミウラP400」である。ミウラの初期モデル。クラシックカーにおいて、最初期モデル人気の法則は、このミウラに限って当てはまらない。
いま、世界中で人気を博し、高額な相場で取引されているのは、最終型の「P400SV」だ。
それは、単にカタチだけの問題だろうか。P400やP400SをSV仕様にモディファイするケースは、今も昔も多いから、SVスタイリングへの憧れは、当のミウラオーナーにとっても計り知れないものがあるだろう。
単なるスキンチェンジでは済まず、サスペンション構造にまで手を入れなければならないという大手術=驚くようなコストをかける価値が、SVスタイルにはあるということなのだが、本当にそれだけの理由で人気なのだろうか。
SV人気の裏にボクは、ミウラが成立し市販された1960年代後半にランボルギーニを取り巻いていた、どこか重苦しい空気を感じずにはいられない。
ミウラとは、いったい何だったのか。
ミウラとは、いわゆるスーパーカーの元祖である。たとえ、設計者であったレース狂のジャンパオロ・ダラーラの想いが他にあったにせよ、純粋にロードカーであることを目指して造られたマルチシリンダーエンジン・ミドシップレイアウトの2シーターベルリネッタという形式は、その後のスーパーカースタイルを決定づけた。
1965年。鮮烈のハダカ、披露。12気筒エンジンを横置きしたミドシップレイアウトのベアシャシは、ジャンパオロ28歳の野心が生み出した佳作であったことは間違いない。
一見レーシーに見えたし、ランボルギーニがル・マン24時間レースなど当時の最重要マーケティングをお人好しにも無視して高級スポーツカービジネスを推し進めるとは誰も思わなかったので、たちまちそれはセンセーショナルな話題を振りまくこととなった。
とはいえ、フェラーリよりも速く走り、フェラーリより豪華で、フェラーリより快適な高級グランツーリズモメーカーを目指すランボルギーニにとって、ジャンパオロの提案は激し過ぎた。
いまでいうスペチアーレモデルの限定生産くらいは念頭にあっただろうが、決してシリーズ化を想定したわけではなかったはずだ。世間を驚かせてくれれば十分、そのベアシャシは役割をまっとうできた。
それほど、ランボルギーニはこの世界において赤子であったのだ。(無名の会社が設立され僅か2年後の話であったことを思い出して欲しい。)
しかし、その実それは、フェルッチオはおろか、設計した当のジャンパオロの想像をも超えて、世界中のミリオネアの心を動かしていたのである。
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