えっ…スバルの“バイク”あった!? 微笑ましいデザインの「スバル二輪車」はなぜ消えたのか?
水平対向エンジン・シンメトリカルAWDなどの伝統技術などによって、日本のみならず世界中にファンを持つスバル。実はそのはじまりはバイク(スクーター)でした。ではなぜ、国産スクーターの雄として君臨した同社のスクーターは、消えてしまったのでしょうか。
スバルの始まりはむしろバイクだった?
クルマ作りへの強いこだわり、水平対向エンジン・シンメトリカルAWDなどの伝統技術によって、日本のみならず世界中にファンを持つスバル。しかし、そのはじまりはバイク(スクーター)だったことをご存知でしょうか。
そしてなぜ、国産スクーターの雄として君臨したスバルの2輪車は、消えてしまったのでしょうか。
スバルの社名は、2016年まで「富士重工業」でした。そのため以前の「スバル」は、同社が生産するクルマのブランド名でした。その富士重工のルーツは、1917年、元海軍機関大尉 中島知久平が、群馬県新田郡尾島町(現:太田市)に設立した民営の飛行機研究所までさかのぼります。
その後、同研究所は、第二次世界大戦中に陸軍の一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」、四式戦闘機「疾風」、海軍の夜間戦闘機「月光」、艦上偵察機「彩雲」などの名機を生み出した中島飛行機に発展します。
しかし終戦とともに、軍需企業は平和産業への転換を余儀なくされます。日本最大手の航空機メーカーだった中島飛行機も例外ではなく、富士産業に改称後は、日用品や機械の生産を行うようになりました。
三鷹研究所では製粉機、太田製作所では自転車・リアカー、大宮製作所では自動車部品、小泉製作所ではバスのボディ……など、作る製品は様々でした。
最初の「ラビット」は、リアタイヤが航空機用だった!?
そんな中、太田製作所の技術者たちが、あるのりものに注目しました。それが、進駐軍の兵士が使っていた簡素なスクーター「パウエル」でした。
1946年、彼らはパウエルを手に入れると、太田と三鷹の事業所でパウエルを参考にした国産スクーターの開発に着手。その際に作られた試作車のタイヤには、余っていた「銀河」の尾輪が流用されたという逸話が残っています。
そして翌1947年、量産型モデルを「ラビットS1」として発売。資源・材料が乏しい当時の状況でも生産できるよう、極めて簡潔な作りでしたが、戦後の混乱期における貴重な移動手段として注目されました。エンジンは、4ストローク単気筒の135cc。アクセルはハンドルのグリップではなく足踏み式で、エンジンカバーは航空機と同じジェラルミン製でした。
ラビットはその後も頻繁に改良・モデルチェンジを行い、次第に設計・デザインともに発展。よりバイクらしい姿や、過不足のない性能を手に入れていきました。そして経済復興が進むと、スクーターには大型化・高級化が求められるように。
当時はまだクルマ(オート三輪なども含む)が普及途上にあったため、バイクやスクーターも大切な人とモノの輸送用車両として重宝されたのです。
それに応えて1954年に生産をスタートした「S61」は、フロントの風防を大型化して悪天候時の走行を容易にするほか、荷室の拡大などにより実用性を高めていました。
さらに1956年には、トルクコンバーター(流体式自動変速機)を搭載した「S61D」も登場。S61の後継車として1957年にデビューした「S101」では、外観ではフロントフェンダーと風防が一体化して、高級感も大きくアップしていました。
戦後日本のスク-タはゼロ戦の残骸から生まれたと言っても過言ではない。富士はラビット。三菱はシルバ-ビジョン。どちらも戦闘機製作工場に残ってた後輪タイヤを利用しスク-タを造った