えっ…スバルの“バイク”あった!? 微笑ましいデザインの「スバル二輪車」はなぜ消えたのか?
スバルのバイク、なぜなくなったのか
S101Dの後を継いだのが、「スーパーフローS601」です。S61Dから続くトルクコンバーターを搭載。外観はS101に準じますが、エンジンは199ccの2ストロークに換装されてパワーアップ。ブリヂストンと共同開発されたエアサスや、片持ユニットスイングを採用しました。
大きなスクーターが必要とされる一方、軽量・安価なモデルの需要もありました。そのコンセプトを実現したモデルが、1952年の「S52」でした。これの改良型「S53」では、シンプルだった外観にも配慮が行われるようになり、ボディ後半が流線型に造形されていました。
続いて1953年に登場した「S55」は、148ccだったS53に199ccエンジンを搭載したモデルです。美しいスタイル、高められたパワーによって人気を博しました。
ラビットには、この他にも1961年から1968年まで販売を続けた125ccクラスの「ジュニアS301」なども存在します。いずれのモデルも高い完成度を誇り、1950〜60年代のスクーターブームを牽引しました。
しかしラビットは1968年に生産を終了。以降、富士重工業はバイク市場から完全に撤退して現在に至っています(なお製造メーカーの富士産業は、1950年に12の会社に分割されましたが、1953年に再合同を行い、富士重工業を設立)。
バイクの生産を終えた理由は、高い耐久性と優れた燃費を備え、かつ安価・軽量なホンダ「スーパーカブ」など50ccバイクの台頭、4輪商用車の普及やスバル「360」など国民車の出現によるスクーター市場の縮小でした。
日本のスクーター文化が復活したのは、ラビットの生産が終わって約10年後。1977年に誕生した、ヤマハ「パッソル」がその先鞭を担うことになりました。
戦後日本のスク-タはゼロ戦の残骸から生まれたと言っても過言ではない。富士はラビット。三菱はシルバ-ビジョン。どちらも戦闘機製作工場に残ってた後輪タイヤを利用しスク-タを造った