なぜ各地で「鎌倉街道」が存在する? 鎌倉市通らずも名称付けられる謎 1000年前の歴史的背景が理由か
1000年前の軍事道路だった?「鎌倉街道」がこんなに多い理由
では、なぜ鎌倉市以外を走る「鎌倉街道」がこれほどまでに多く見られるのでしょうか。そこには、鎌倉を取り巻く歴史的背景が関係しているようです。
現在でも伝統的な日本のたたずまいを残している鎌倉は、日本の歴史においても重要な役割を持っている街です。
創設年については諸説あるものの、1185年に源頼朝が相模国鎌倉(現在の鎌倉市)に幕府を開いたことで、そこからおよそ150年にわたる鎌倉時代が始まります。
ただ、関東地方の武士たちによって作られた鎌倉幕府にとって、京都を中心とした朝廷勢力は依然として脅威となっていました。
そこで、鎌倉幕府は朝廷勢力などが侵攻してきた際に、関東の御家人たちがすぐに鎌倉へと集合することができるように、鎌倉を目指す複数の軍事道路が整備されます。
当時、鎌倉幕府の支配下にあった「東国15か国(現在の静岡県、長野県、山梨県、千葉県、栃木県、茨城県、福島県、山形県、秋田県、宮城県、岩手県、青森県)」の御家人たちが交代で鎌倉幕府を訪れたため、鎌倉を目指す軍事道路はこれらの国を経由する形となりました。
なかでも「上道」「中道」「下道」と呼ばれる3つの道路は、非常に重要な役割を果たしたといわれています。
この3つの道路は比較的大きなものだったとされていますが、これ以外の道路の多くは、軍事道路という性格上、林のなかをひっそりと走る目立たない道だったといわれていますが、これらはすべて鎌倉を目指しているという意味で、「鎌倉街道」と呼んで差し支えない道です。
しかし、これらの道のほとんどは軍事道路として活用されることはなく、江戸時代に入ると、近くの街と街をつなぐ生活道路としての性格を強めてきました。
また、もともと目立たない道が多かったということもあり、より大きな街道に吸収されたり、あるいは道自体が消滅してしまった例も少なくないようです。
つまり、鎌倉時代には、文字通り鎌倉を目指していた「鎌倉街道」が無数にあったものの、その後の歴史のなかで分断されてしまい、現代では細切れのようになって各地域に残されているということのようです。
実際、現代に残る「鎌倉街道」のほとんどは、当時整備されていた軍事道路と部分的に重なるようです。
このように考えると、もともとは鎌倉を目指していたという意味で「鎌倉街道」の通称名は決してルールから外れていないといえそうです。
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「鎌倉街道」のように、日本の歴史と深く関わる道路は数多くあります。
普段通り慣れている道が、歴史的にはどのような役割を持っていたのかを調べると、いつもの道がまた違った風景に見えるかもしれません。
国道246号の通称は大山街道では?
1000年という数字はアバウトすぎる。1000年前なら平安中期、鎌倉という町(少なくとも中心地として)は存在しないのになぜ?と思ってしまう。せいぜい800年前と書くべきでしょう。