なぜ関西では駐車場を「モータープール」と言うの? 東京では廃れた表現が今も残る背景とは
実は東京にもあった「モータープール」 どこにあった?
では、なぜ大阪を中心とした一部の地域で「モータープール」という言葉が浸透するようになったのでしょうか。
この点については、これまで多くの人々が考察をおこなってきました。
しかし、言葉の成り立ちや移り変わりは、あるはっきりとした時点や場所でおこなわれるものではなく、さまざまな要素が複雑にからみあって起こります。
そのため、「モータープール」の成り立ちについても、あいまいな部分は多いようです。
ただし、1953年に梅田駅前でオープンした第一生命ビルディングには、地下に大阪初となる「モータープール」を備えていることが、当時の新聞で報じられています。
また、1950年に発表された三島由紀夫の小説『愛の渇き』では、現在の阪急うめだ本店付近に「モオタア・プール」があったという描写が見られます。
つまり、少なくとも終戦直後には、大阪で「モータープール」という言葉が用いられていたことがうかがえます。
一方、同時期の小説家である宮地嘉六が1952年に発表した『老残』には次のような一文が見られます。
「一方はモータープールの金網の塀(へい)が続いていて、その二間幅ほどの通路を進駐軍将兵がひつきりなしに往来している所なのである」
ここで注目すべきは、この小説の舞台は戦後間もない東京であるという点です。また、作者の宮地嘉六も関西出身であったり、関西に居住歴があったりすることはありません。
つまり、「モータープール」は、大阪や関西地方で生まれた言葉ではないことがわかります。
英語の「motor pool」は、軍事機関などにおいて軍用車両や関係車両を一時的に留め置いておく場所を意味します。
広い意味では「駐車場」と呼べるかもしれませんが、日本語の「モータープール」よりも限定された意味の言葉のようです。
ただ、英語の「motor pool」が、現在日本語として使われている「モータープール」との語源となっていると見て間違いなさそうです。
日本は、1945年9月2日から1952年4月28日にいたるまでの約7年の間、連合国軍による占領統治下となっており、連合国軍は実質的には米軍であり、日本では「進駐軍」という呼ばれることのほうが一般的でした。
当時、東京の中心部には連合国軍の公的機関が多く設置されていました。例えば、連合国軍総司令部は、日比谷にあった第一生命館(現在の第一生命日比谷ファースト)に設置され、周辺には多くの「motor pool」が存在。
進駐軍の関係者は、あくまで「軍用車を留め置くスペース」として「motor pool」という表現を使っていたところ、それを聞いた日本人が「複数台のクルマを、一定期間にわたって駐車する場所」として理解したことが、現在の「モータープール」につながっていると見ることができそうです。
当時、大阪にも進駐軍の各種機関が設置され、それにともない「motor pool」も用意されました。そしてそれを「複数台のクルマを、一定期間にわたって駐車する場所」として理解したという事情は、東京も大阪も変わらないようです。
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