生誕40周年! ジウジアーロが手がけた「ピアッツァ」誕生のヒミツ

もはや戦後ではなく、世界有数の技術立国へと駆け上がった日本で、デザインや走行性能において欧州車と引けを取らないクルマが誕生した。今なお色褪せないデザインのいすゞ「ピアッツァ」は、どのようにして誕生したのだろうか。

「117クーペ」の後継モデル開発としてスタート

 現代では小型から大型のトラック/バス、海外市場においてのみはピックアップトラックおよびそれをベースとするSUV専業のメーカーとなってしまった「いすゞ自動車」は、かつて魅力的な乗用車の数々を生み出してきた。

 なかでも巨匠ジョルジェット・ジウジアーロとのコラボによって開発されたクーペ「ピアッツァ」は、2021年で誕生から40周年を迎えたこともあって、久方ぶりに旧車ファンの注目を集めているようだ。

●はじまりはイタルデザインの“アッソ・ディ・フィオーリ”

1979年3月のジュネーヴ・ショーのイタルデザイン社ブースにて発表されたアッソ・ディ・フィオーリ(C)中尾博
1979年3月のジュネーヴ・ショーのイタルデザイン社ブースにて発表されたアッソ・ディ・フィオーリ(C)中尾博

 伝説のクーペ「ピアッツァ」の源流は、1979年のジュネーヴ・ショーにてワールドプレミアに供された美しきクーペ、いすゞ「アッソ・ディ・フィオーリ(Asso di Fiori:クローバーのエース)」までさかのぼることができる。

 デザインを手掛けたのは、20世紀中盤から現代に至るまでの約60年にわたって、世界の自動車デザインをリードしてきた超一流のスタイリスト、ジョルジェット・ジウジアーロその人であった。

 ジウジアーロが、1970年代初頭から意欲的に取り組んでいたのが、4人が快適に移動できるとともに、充分なラゲッジスペースも確保し得る実用性と、モダンかつ流麗なスタイルを完全両立したクーペである。そのプロポーザルとして、一連の「Asso(アッソ)」コンセプトが製作されることになる。

 まずはアウディ「80」をベースに開発され、1973年のフランクフルト・ショーで発表された「Asso di Picche(アッソ・ディ・ピッケ:スペードのエース)」がその始まり。

 次いで、BMW初代3シリーズのコンポーネンツを使用して開発、1976年のトリノ・ショーにて発表された「Asso di Quadri(アッソ・ディ・クアドリ:ダイヤのエース)」へと、順当に進化を遂げてゆく。

 しかも「ピッケ」と「クアドリ」の間には、もう1台の「アッソ」が存在した。ジウジアーロが量産型4ドアセダンでもデザインを担当していた韓国車「現代ポニー」をベースに製作した、知られざる「アッソ・ディ・フィオーリ」である。

 ところがこのコンセプトカーは、突如として決定された現代自動車の方針変更にしたがって「現代ポニー・クーペ」として1974年トリノ・ショーに出品されることになってしまい、結果としてイタルデザインの命名したネーミングは棚上げとなってしまっていたのだ。

 ところで、一連の「アッソ」コンセプトが世間の耳目を集めつつあったころ、いすゞ自動車では、長らく生産されてきた同社のフラッグシップ「117クーペ」の後継に当たるニューモデルの開発に関して、真剣に論議されるようになっていた。

 1974年から、いすゞ自動車首脳陣および開発部は117クーペ後継車についてイタルデザイン社と協議を開始。翌1975年から1977年にかけて複数のデザインスタディが提案されたものの、いすゞとイタルデザインの双方を納得させるプロポーザルには、残念ながら辿りつけなかったという。

 そんな状況を打破したのは、意外にも当時日本国内で巻き起っていた一大ブームの主役、イタリア製のスーパーカーたちの存在だった。

 このころ、いすゞ首脳陣と開発メンバーも、スーパーカー独特の華やかな魅力に目をつけていた。そして、イタルデザイン社の共同経営者である日本人実業家、宮川秀之氏から再び打診された117クーペ後継車についての提案が、日本のいすゞ本社に送られたことで、一度は止まった両社の歯車が再び動き出すことになるのだ。

 同じ年の12月には、いすゞ本社の開発部長がイタルデザイン社を訪問し「SSC(Small Super Car)」と銘打ち、イタルデザイン側からのプロポーザルがあれば検討する旨を確約。翌1979年3月には、イタルデザイン名義でジュネーヴ・ショーへの出品を正式決定する。

 つまり、アッソ・ディ・フィオーリは発表当時にいわれていたような「イタルデザイン主導」ではなく、いすゞ側が起案したコンセプトに基づくものだった。

 そしてマセラティ「ボーラ/メラク」やロータス「エスプリ」などで成功を収めていたジウジアーロのデザイン能力をもって、スーパーカーのエッセンスを実用性に富んだ「アッソ」シリーズの基本コンセプトにブレンドさせる。それがアッソ・ディ・フィオーリの骨子となったのである。

 さらに、スポーツワゴンとしての資質も求めていたいすゞの希望をかなえるため、両社内で「SSW(Super Sports Wagon)」というコードネームで呼ばれることになったこの新プロジェクトに向けて、いすゞ本社から「ジェミニ・クーペ」用ローリングシャシと117クーペ用G180W型DOHCユニットが、1978年9月に航空便で発送されることになる。

 このような経緯のもと、1978年10月には、ジェミニをベースとしたシャシに、ジウジアーロのデザインしたボディとインテリアを組み合わせる作業がスタートしたのだ。

【画像】「ピアッツァ」の原型となったクルマとは?(21枚)

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コメント

3件のコメント

  1. いすゞのピアッツァ もう40年になるんですね。
    当時高校生だった私は、「何と丸い不格好な車(一部ではおばさんが前屈をした車って言われてた)」と思いましたが、当時は角ばった車ばかりだし いすゞと言うこともあって後発のFFジェミニが売れて、さらにASKA(あすか)も売れたけれど、ピアッツァはパットせず何度か限定車で繋いでフェードアウトの印象でした。
    いすゞの協力会社に勤めていた関係もあり、知り合いにピアッツァを乗られた方がいらっしゃいましたが、外観デザインは好みの問題もありますが、内装とかハンドリングとかいわゆる先代のFR車のままで余り良くなかったみたいですし、大幅値引きでも売れなかったと記憶しております。

    しかし、今考えると時代を先取りしすぎて日本人が時代についてこれなかったのかと思います。
    ただ、後年ニコンのカメラを使うようになって、ジウジアーロ氏の名を知ることになり、振り返ってみると40年たった今でも古さを感じさせない外観は、やはり巨匠の作品だと思いました。
     昨今 特に日本車には「訳の分からないデザイン」の車が、溢れすぎていると感じる故、このピアッツァのデザインがいかに優れているかを感じます。
    これからも、日本で沢山のピアッツァの様な「40年先でも古さを感じさせない車」を、作って欲しいです。

  2. ヤナセでも発売されたJRピアッツァが藤沢の工場からキャリアカーで出荷されていくのを見ると何となく花嫁行列みたいな感じがしましたよw
    て言うのも場合によってはエルフに混じって搭載されたり、カタログ撮影用のピアッツァを積んだキャリアカーが走ってたり
    ISUZUの乗用車と言えば私は真っ先にフローリアンを思い浮かべるけど、久しくディーゼル乗用車として復帰したのもフローリアンで
    エンジン音はエルフと同じw
    流石にピアッツァにはディーゼルはなかったけどフローリアン後継のフローリアンアスカの4F系のOHCディーゼルターボはマジに速かった!
    横置きFFの悪い癖はあるもののMTなら軽くホイルスピンもしたし、願わくばFRのピアッツァに4FC1ディーゼルが載らないかな〜と本気で期待してました。
    本当にピアッツァのデザインは未来のデザインで実際に他のメーカーもこれに追従する形になりましたね。
    ISUZUっていい車造れる会社なのに勿体ないよね、ISUZUが生産したWFRファーゴなんてハイエースより頑丈だし、ジャーニーだってシビリアンOEMより全然良かった。
    NPR61系エルフから移植した4BD1はランクルのB系エンジンのコースターよりパワーあったしね、ISUZUって国宝なメーカーだと思う。
    セラミックグロープラグで急速余熱で寒冷地の強い見方だったな。

    • そうだよね
      なんでトラックメーカーになったのやら
      117とかベレGとかよかったのに
      そうだ工場長さん覚えてます?わたしW124と「チンピラ」でいろいろあなたと喧嘩したモンザと同一人物です
      車名のあとに「箕浦」とあったらモンザだと思ってください
      あっちのほうにもコメントしてますよ