マセラティの救世主になるはずだった「ボーラ」とは?【THE CAR】

「MC20」を発表し、あらたな時代の幕開けを切ったマセラティが、1970年代のシトロエン傘下時代に世に問うた「ボーラ」とはどのようなクルマだったのだろうか。

スーパーカーブーム時代にマセラティから生まれた「ボーラ」

 この美しきミドシップカー、「ボーラ」について語る前に、1960年代から1970年代当時のマセラティ社の状況を思い出しておこうじゃないか。「MC20」が発表され、あらたな時代の幕開けを切った2020年、歴史の節目をいくつかピックアップして知っておくことは、決して無駄なことではないからだ。

開発当時はシトロエン傘下であったこともあり、LHM(リキッド・ハイドロリック・ミネラル)とい言われる専用油圧システムを搭載。ブレーキサーボやシート高上下、ペダルの位置調整、リトラクタブルヘッドライトの開閉にこの油圧システムが用いられていた
開発当時はシトロエン傘下であったこともあり、LHM(リキッド・ハイドロリック・ミネラル)とい言われる専用油圧システムを搭載。ブレーキサーボやシート高上下、ペダルの位置調整、リトラクタブルヘッドライトの開閉にこの油圧システムが用いられていた

 ボーラ誕生の前夜。1960年代後半のマセラティは、30年近くにも及んだオルシ家の支配から離れ、新たにシトロエンというパトロンを戴いていた。

 オルシ・マセラティの末期から企画された華々しくも馬鹿げたモデル展開、すなわち、「3500GT」を親として共通するひとつのFRプラットフォームを使って、6車種(「クアトロポルテ」、「ギブリ」、「セブリング」、「ミストラル」、「メキシコ」、「インディ」)を展開するという試みは、後を引き継いだシトロエンにとっても、非常に厄介な戦略であったに違いない。

 打つ手をなくしたオルシ家が「高級新型車手形」を乱発して必死に現金を作ろうとした、といえなくもない。焦りともいえる戦略を選択せざるをえなかった背景には、すぐご近所に、同じ県の隣町に生まれたランボルギーニの存在があったのではないだろうか。

 そう、猛牛がいたく刺激したのは、跳ね馬などではなく、海神ネットゥーノ(ネプチューン)であった。

 ランボルギーニもまた、1960年代当時、FRの豪華で高性能なGTカーシリーズを展開しており、しかも(マセラティの8気筒よりもインパクトのある)12気筒エンジンを積んでいた。ランボルギーニが、スポーツカー界のロールス・ロイスを目指すという初期のコンセプトは、確かにマセラティのそれと似通っていた。

 マセラティの創業は1914年のことであり、ランボルギーニ誕生から遡ってちょうど半世紀前という計算だ。

 我が朋は2倍の歴史をもつブランドである、という強烈な自負心があったことは、想像に難くない。フェラーリが存在することすら既に目障りだというのに、さらに近所から新興メーカーがいきなり出現し、ネプチューンの上を目指すという明確なコンセプトをもって、商業的にはともかく、商品的には確かにそれを達成しつつあるという事態は、マセラティ経営陣の自尊心をいたく傷つけたことだろう。

 しかも、1960年代後半のランボルギーニには、フェラーリさえ当時まだ実現できずにいた、12気筒ミドシップスポーツカーの「ミウラ」というフラッグシップモデルさえ存在していた。ミウラの計画が、新興メーカーとしていっそう目立つための方便からスタートしたにせよ、このクルマが実質的にフェラーリを刺激し、同じように「ないものねだり」の状況にあったマセラティをも、大いに焦らせたのだった。

 マセラティが、スペックとスタイルで押しまくってくるランボルギーニに対して、さりげなく気品があって落ち着いた、けれどもあくまで実質的なグランドツーリング・パフォーマンスを重視するという、他にないコンセプトで迎え撃ったという構図は、伝統あるブランドの意地と矜持であったといえるかもしれない……。

 そして、フェラーリやランボルギーニへの対抗手段として誕生したミドシップのスポーツカー・ボーラには、確かに他とは違う資質が備わっていた。

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