富士スピードウェイは米国志向のサーキットになるはずだった!? 国内レース黎明期の裏話とは
静岡県にあるサーキット「富士スピードウェイ」はF1開催経験もある国際的なサーキットですが、元々はアメリカ志向の強いサーキットになる予定でした。その名残はサーキットの名前にも隠されているというのですが、いったいどのような経緯があったのでしょうか。
富士スピードウェイ 幻のコースレイアウトとは
「これが、富士スピードウェイの完成予想図です。ほら、ここ(デイトナ)とまったく同じ感じでしょ。なぜって、姉妹コースなんですから」。
いま(2020年)から26年前の1994年、筆者(桃田健史)はアメリカ南東部フロリダ州デイトナビーチのNASCAR(ナスカー)本部で、貴重な資料を目の当たりにしました。
NASCARはアメリカでインディカーやドラッグレースを凌ぐ人気を誇る、同国最大級のモータースポーツ。1994年といえば、NASCAR人気が急上昇し始めた頃です。
その後に鈴鹿やツインリンクもてぎで実現することになる、NASCARジャパン開催を計画し始めた頃でもありました。
筆者は当時NASCARとの関わりが深まり、トップチームの多くが本拠地とする米東部のノースカロライナ州シャーロットに住んでいました。NASCAR本部にはドライバーとして、また当時連載企画があった自動車レース雑誌の取材などで頻繁に訪れていました。
そうした折、1960年代初頭に描かれた、富士スピードウェイの完成予想図に出会ったのです。
その姿はまさに、NASCAR本部が隣接するデイトナ・インターナショナル・スピードウェイと同じ、1周2.5マイル(約4km)のD型オーバル(楕円)コースでした。
D型オーバルは、メインストレート(レーススタート地点がある側)部分が、ターン1からターン2、そしてターン3からターン4(最終コーナー)と同じく、路面が大きく傾斜するバンク角がある一方、バックストレートにバンク角がなく、上空からコース全体を見ると、アルファベットのDの文字に見えるのです。
1960年代当時を知るNASCAR本部関係者は1994年時点で、ジャパンNASCARという企業と契約し代表者はドン・ニコルズ氏だったと話しました。
ニコルズ氏は1960年代の日本自動車レース創世記に、海外からのレース車両輸入などを手掛けたことで知られる人物で、業界の通称は“ドンニコ”でした。
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