フェラーリの本流ではなかった!? フェラーリ「365BB」誕生の秘密【THE CAR】
1971年の伊トリノショーでその姿を現した365GT4/BBは、ロードゴーイングマシンとしてはフェラーリ初のミド12気筒で、新興勢力であったランボルギーニの脅威を打破すべく登場した。
ロードゴーイングマシンとしてはフェラーリ初のミド12気筒
歴史の皮肉というべきだろう。フェラーリが、カタログモデルのフラッグシップモデルとして、12気筒エンジンをリアミッドにおくロードカーをラインナップしていたのは、「365BB」に始まり、「F512M」で終わる、たったの20年間に過ぎない。
「F50」や「エンツォ」、「ラ・フェラーリ」など、いわゆる「スペチアーレモデル」を除けば、ミドシップの跳ね馬といえば今や、V8エンジン搭載モデルのことを指す。「550マラネロ」以降、最新の「812スーパーファスト」に至るまで、フェラーリの フラッグシップが、BB以前と同様に、フロントエンジン車となって久しい。フェラーリといえば、ミドシップのイメージは決して、本流ではないのだ。
12気筒エンジンをリアミッドにおいたフェラーリは、今も昔も異種の匂いに満ちており、公道を駆ける跳ね馬の歴史において、鬼っ子的な存在であることは明らかだろう。今となっては、スーパーカーの世界を見渡しても、ランボルギーニ・アヴェンタドールと、少量生産のパガーニくらいにしか、12発ミドのパッケージを見つけることはできない。ロードカーの世界においてはもはや、12気筒のミドは、奇態であった。
創始者エンツォはミドシップの市販ロードカーそのものに最後まで乗り気ではなかった、という数々の証言が現代に伝えている。BB時代のピニンファリーナで腕を振るった、レオナルド・フィオラバンティもそのひとり。彼のピニンファリーナにおける最初の仕事は、奇しくも60年代にGTレース参戦のため企画された12気筒ミド=250LMのサイドダクトデザインだった。
レオナルドによると、相次ぐ新興勢力のミドシップロードカーを尻目に、ようやく、エンツォがその商品性の高さに理解を示しはじめたのはV6エンジンを積んで、車名をディーノと呼ぶことになった秀逸なコンパクトスポーツカーに乗ってからだったという。
ランボルギーニ・ミウラやクンタッチの存在が、はたしてどれほどフィアット・フェラーリ陣営を刺激したのだろうか。フェラーリにとって12気筒はアイコンであり、それをミドに積むからには、パフォーマンスにおいて新興勢力になど「負けたくない」という思いが強かったことだけは、その後の「最高速度のくちプロレス」を思い出しても明らかだろう。
12気筒エンジンをミドに積む365BBとして現実になるのは70年代からであり、その頃はフェラーリの市販車部門がフィアットの軍門に下っていた。
仮にもしフィアット傘下になっていなければ、BBシリーズは少量限定生産の短命に終わっていた可能性が大だ。なにしろ365BBの作り方は、今でいうところのスペチアーレ流である。そこには、「モノ真似ではない」パッケージングから、ボディ骨格の作り方、ドライバビリティに至るまで、数を出したいロードカーとしては、いくつものムリがあった。
それまでFRを頂上にいだいてきたブランドにとって、いきなりのミドシップは、同じくF1イメージを色濃く残すF50が登場したときよりも「大げさ」なデキゴトだったに違いない。
親会社のフィアットとしては、多少の無理も承知のうえで、にわかに人気を得はじめたBBをフラッグシップとして担ぎ、フェラーリの名前をよりいっそう高く売っていこうと願った。
コメント
本コメント欄は、記事に対して個々人の意見や考えを述べたり、ユーザー同士での健全な意見交換を目的としております。マナーや法令・プライバシーに配慮をしコメントするようにお願いいたします。 なお、不適切な内容や表現であると判断した投稿は削除する場合がございます。