盗んだバイクで走り出すには理由があった? 初日の出暴走のルーツとは!?

1980年代にピークを迎えた初日の出暴走とはいったいどんな現象だったのか、そのルーツに迫ります。

目立ちたいという若者の心理が、初日の出暴走をエスカレートさせた

 かつて、「初日の出暴走」という元旦恒例のニュースがありました。この初日の出暴走は、いつごろから始まり、どうして過激になっていったのでしょうか。

ギャラリーに見てもらうため、カスタムも細部に渡って仕上げにこだわるようになった
ギャラリーに見てもらうため、カスタムも細部に渡って仕上げにこだわるようになった

 1980年代に、初日の出暴走という暴走行為が注目を集めました。当時を知る人によると、暴走行為をしていた若者たちは、厳しい警察の追跡を振り切って「いかに目的地にたどり着くか」といったスリルをゲーム感覚でおこなっていたようだとのことです。
 
 今も昔も、暴走行為が許される時代はありませんでしたが、1970年代から1980年代は、取り締まりが厳しいながらも、元旦に改造車を運転して「初日の出暴走」なるものができてしまう時代でした。
 
 初日の出暴走がエスカレートしたのは、テレビの特番などで大々的に取り締まりの模様が放送されるようになってからでした。ときにはライブで現場中継され、実況放送されるという時期もありました。
 
 テレビで放映されるようになると、「みんなが見ているならもっと目立ちたい!」という心理が働き、クルマやバイクの改造の度合いも過激になり、暴走行為も大胆になります。
 
 警察の取り締まり体制が整う前に、切り込み隊長として1台が猛スピードで料金所や検問所を突破すると、それに続けとばかりに後続車が続くという暴走行為が頻繁におこなわれました。
 
 なかでも有名だったのが、中央道八王子料金所での警察と暴走族との間で繰り広げられた攻防です。このとき暴走族が目指したのは、河口湖インターでした。
 
 河口湖インターに向かう途中の談合坂サービスエリアで、初日の出を待つというのが恒例となっていました。
 
 初日の出暴走の始まりは、1980年代後半といわれていますが、それは世間が認知し始めた時期のことです。
 
 初日の出暴走のルーツをたどっていくと、1970年代にクルマ好きの若者たちの心を捉えた富士グランドチャンピオンレース(通称グラチャン)全盛期に行き当たります。

 通称ハコスカや通称ケンメリと呼ばれた日産「スカイライン」や「フェアレディZ」といったクルマを、グラチャン仕様に改造して楽しむ人達がチームを作り、そのチーム単位で「走り納めと走り初め」をおこなったのが、ルーツとも言われています。
 
 1970年代にはインターネットやSNSなどもちろんありませんでした。口コミなどで集まる台数も増え、行為そのものが徐々に拡大します。
 
 そして暴走族の数が増大した1980年代に入った頃にはピークを迎え、「初日の出暴走」という名前が自然と定着しました。
 
 当初は、四輪(クルマ)の改造車のみでしたが、年々規模も台数も増加し、警察の取り締まりが厳しくなります。
 
 そこで、警察の取り締まりから逃げやすい単車(二輪車・バイク)の数が増えていきます。大晦日の深夜の遠征ともなれば、寒さをしのぐために、夜を明かす待機場所(クルマ)が欲しくなります。
 
 それゆえ当時は、お正月仕様に目立つ改造を施した四輪と一緒に単車も行動し、遠征部隊を結成するのが各チームの定番になっていました。
 
 その後、1990年代後半になると警察の徹底した取り締まりによって暴走族そのものの数が減少します。
 
 河口湖を目指した談合坂サービスエリアでの初日の出集会は消滅し、テレビ特番でも放送されなくなりました。

初日の出暴走の歴史を写真で振り返る(23枚)

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