日産の名車「GT-R」と「フェアレディZ」 生まれや育ちが違う2台の誕生秘話とは
日産を代表する2大スポーツカーのGT-RとフェアレディZ。約60年も続く両車には、どんな歴史があるのでしょうか。
日産の2大スポーツカー!GT-RとフェアレディZの歴史を振り返る
日産には、歴史的な名車が数多く存在しますが、そのなかでも代表的な2台のスポーツモデルが「GT-R」と「フェアレディZ」です。
両車ともに、60年近い歴史を持っていますが、いまなお新型モデルなどが登場する色褪せないクルマといえます。そんな、GT-RとフェアレディZにはどんな歴史があったのでしょうか。
GT-Rの祖先にあたる「スカイライン」は、プリンス自動車の前身である富士精密工業が1957年(昭和32年)に世に送り出した1.5リッターのスポーツセダンでした。
翌年(1958年)、1.9リッターに排気量を拡大したBSLI-1型「スカイライン1900」の試作車をモーターショーに出品。このクルマが当時の皇太子明仁親王の愛車となったことでも有名です。
スカイラインを一躍有名にしたのが2代目のS50型です。1.5リッターのセダンボディのフロントを200mm延長して2リッター6気筒SOHCエンジンを積んだスカイラインGTが、1964年の第2回日本グランプリ決勝でポルシェ「904」を抜いて1ラップだけトップに立ち、“スカG伝説”が生まれました。
しかし、ポルシェに完膚なき敗戦を喫したプリンス陣営は、本格的なレーシング・プロトタイプ開発に着手。完成したのが、「R380」です。
1966年、改良型R380-1型が第3回日本グランプリに出場して、1-2フィニッシュを決め、総合優勝を果たしました。しかし、同年プリンス自動車は日産自動車に吸収合併されます。
一方、フェアレディの名を冠したオープンスポーツは、1960年(昭和35年)に初めて登場します。個人がクルマを所有することさえ難しかった1960年代初頭の日本で、スポーツカーの需要が旺盛なはずもなく、当初ダットサン「フェアレデー」と記されたSPL211型は、左ハンドルの輸出専用モデルでした。
これは、日産の眼が米国市場に向けられていたためです。その後、SPL212/SPA231/SP310/SP311、そしてSR311へと続くフェアレディの歴史は、つねに最大の自動車市場である北米を見据え、そのマーケットで魅力的なクルマづくりへの挑戦でした。
1969年に、日産フェアレディZが登場します。先代にあたるSPL212型からSR311型フェアレディはオープンカーで、英国のライトウエイトオープン2シーターを彷彿とさせるクルマでした。
それがファストバック、ロングノーズ&ショートデッキのボディへと刷新され、フェアレディZとして生まれ変わったのです。
搭載エンジンはすべて直列6気筒で、なかでも「Z432」搭載のS20型直列6気筒DOHCエンジンは、R380搭載のパワーユニットのデチューン版だといわれました。
デビューしたフェアレディZは、美しいエクステリア、充実した装備のわりには低価格ということもあり、海外に数多く輸出されました。なかでも北米では「Z-Car」の愛称で呼ばれ、人気を呼びます。
また、フェアレディZがデビューしたする1968年、生まれ変わった3代目「スカイライン」が登場。後に「ハコスカ」と呼ばれるモデルです。
そのスカイラインに、R380のエンジンが搭載されるというニュースが流れ、全国のスカイラインファンを唸らせたのが、1969年スカイラインGT-Rの鮮烈なデビューでした。
R380の6気筒DOHCをディチューンして扱いやすいスペックをもたせたS20型は、まずGT-Rに搭載され、前述のZ432にも移植されたのです。
そのS20型は、それまでの国産エンジンとは別モノの1気筒あたり4つのバルブを持った世界初の量産DOHCエンジンでした。
当時としては、破格の最高出力160ps/7000rpm、最大トルク18.0kg.m/5600rpmを発生した超高性能エンジンです。
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