マツダ「ユーノス・ロードスター」 不遇のアウトサイダーが自動車文化の担い手へ
マツダを代表するクルマのひとつ「ロードスター」はしかし、その初代の開発時代は不遇をかこっていたそうです。誕生の前後で、これを取り巻くクルマの世界はどのように変わったのでしょうか。
「ユーノス・ロードスター」が誕生した時代とは
累計生産台数100万台を突破し、「世界一売れたふたり乗りスポーツカー」のギネス記録を現在も更新中である、マツダを代表するスポーツカーが「ロードスター」です。世界が認める名車の1台と呼んでもいいでしょう。その初代モデルは1989(平成元)年に「ユーノス・ロードスター」の名称でデビューしました。
ところが、その開発初期、マツダ社内が「ユーノス・ロードスター」にかける期待は非常に小さなものでした。今の「ロードスター」の成功は、誰も予想していなかったのです。
それも当然のことでしょう。1980年代はバブルに向かう好景気時代で、マツダは販売5チャンネルという夢に向かって疾走していました。「マツダ店」「アンフィニ店」「ユーノス店」「オートザム店」「オートラマ店」という5種類の販売チャンネルを構築しようという構想です。そのために、それぞれの販売店用のクルマを開発しなければなりません。数のさばけないスポーツカーの開発よりも、そちらの方が会社としては重要です。
また、「ユーノス・ロードスター」はスポーツカーでいえば「ライトウェイト2シーターオープンスポーツ」。文字通りに軽くて、小さなふたり乗りのオープンカーで、1960年代の英国で大きく花開いたジャンルです。あまり速くないけれど、小さくて安い。そして「運転すると楽しい!」というのが特徴です。
ところが、1980年代は「ライトウェイト2シーターオープンスポーツ」にとって冬の時代。クルマの性能が高まるほどに、ユーザは、もっとパワフルに、もっとゴージャスにという傾向が強くなりました。また、オープンカーはクルマが転倒したときに危険というイメージもありました。