スズキが「47万円」の新車を販売!? 誰もが驚く低価格設定… 初代「アルト」はなぜ成功したのか
浜松の小さな企業であったスズキはいまや世界的な企業となっています。その立役者となったのが鈴木修氏。そしてその最初のクルマが初代「アルト」でした。スズキの成功を導いた初代アルトとはどのようなクルマだったのでしょうか。
「アルト以前、アルト以後」と表現できるスズキ成功の秘話とは
スズキの軽自動車「アルト」は、100年を超えるスズキの歴史のなかでも、トップクラスの重要な存在です。
そんな初代アルトにはどのような開発秘話があるのでしょうか。
スズキの歴史において「アルト以前、アルト以後」と表現してもいいくらいです。
今、その初代アルトを見れば、小さくて質素なクルマにしか思えないかもしれません。
しかし、その初代アルトほど、スズキに大きな貢献を果たしたクルマは存在しないのではないでしょうか。
初代アルトが誕生する前までのスズキは、軽自動車専業で軽自動車業界のなかでも順位は4番目や5番目といったところ。
上位はマツダや富士重工(現・スバル)やホンダが占め、スズキやダイハツは、その下という位置づけでした。
また、1960年代には人気を集めた軽自動車は、1970年代に入って失速。日本全体のクルマの販売台数は伸びていたなかで、軽自動車だけが売れ行きを落としていきました。
1971年には年間約120万台も売れた軽自動車が、1975年には60万台を切るほどに減っていたのです。
その前の時代にあった3輪トラックのように「もう役割は終えた消えゆく車種」という見方さえありました。
さらに、1970年代は排気ガス規制が厳しくなっていた時代です。それに対して、オートバイから自動車に進出したスズキは、軽自動車にも2ストローク・エンジンを搭載していました。
ところが2ストローク・エンジンは排気ガス規制への対応が困難。スズキは2ストロークでありながらも、規制をクリアする新しい「エピック・エンジン」を開発しますが、技術的に無理と1970年代半ばに実用化を断念します。
しかも、スズキにさらなる不運が降りかかります。1977年に2代目社長であった鈴木俊三氏が亡くなるだけでなく、創業者の鈴木道雄氏と現役の社長であった鈴木寛治氏が病に倒れてしまいます。スズキの経営陣が立て続けに倒れてしまったのです。
軽自動車業界に逆風が吹いており、そのなかでもスズキは弱小であり、悪いことに技術的な自信をなくし、ベテランの経営陣もいなくなったというのが当時のスズキ。これほどひどい状況は、そうそうありません。
そこに救世主が登場します。1978年に当時48歳であった鈴木修氏が新社長に就任します。
鈴木修氏は、浜松の小さな企業であったスズキを世界的な企業に育て上げたカリスマ経営者です。新社長就任の翌1979年には、新型アルトが登場。
つまり、修氏にとってアルトは、最初の勝負のクルマであったのです。
写真少なっ!。どうせなら初代アルトの内装やエンジンも撮影させて貰えば良かったのに。