トヨタ「2000GT」の功罪。短命だった理由とは?【THE CAR】

TOYOTA GAZOO Racingから、「GRヘリテージパーツプロジェクト」として補給部品の復刻がアナウンスされたばかりトヨタ「2000GT」だが、その開発の背景にはなにがあったのか、当時を振り返ってみよう。

世界に挑んだメイド・イン・ジャパン

 スーパーカー世代の筆者にとって、トヨタ「2000GT」は今も昔も変わらず、国産車のなかで唯一無比のスーパーカーであり続けている。たとえ、それが、私的スーパーカーの定義=マルチシリンダー×ミドシップ×2シーターの定義から外れていようとも。

ドライビングランプの存在感が強調された前期型。国産車としては初めてリトラクタブルヘッドライトを採用
ドライビングランプの存在感が強調された前期型。国産車としては初めてリトラクタブルヘッドライトを採用

 ブームの頃から「トヨ2」は別格だった。かの漫画の中ではヒール役の愛車だったが、欧米のスポーツカーに対抗できるという意味で、そうなるにふさわしい日本車だった。トヨ2には、他の国産スポーツカーにはない、湧き出るオーラがあったのだ。

 トヨ2が放つオーラの源が、企画から市販までに費やされた開発陣の、熱情と献身と精魂にあったことは、論をまたない。モノ造りとはそういうものである。話の展開上、トヨ2誕生までの流れを簡単に記しておこう。

 話の端緒はともかくも、トヨタ自動車とヤマハ発動機という4&2輪のトップメーカー連合によって共同開発され世に送り出された、という言い方が、概略として間違いがないはずだ。生産そのものはヤマハ発動機である。

 昭和39年10月に企画がスタート。翌年早々にはトヨタ側の開発主力メンバーがヤマハへ出向している。受け皿としてヤマハに自動車部が発足したのは40年1月のこと。GPマシン王者メーカーとして世界最高峰にあったヤマハは、創立以来、ずっと4輪参入の機会を窺ってきた。

 あの当時、トヨタにはまだなかった、高い技術力がそこに参集していたであろうことは想像に難くない。

 トヨタは、最高のスポーツカーを作るため、もちろんそれに期待した。

 たとえばDOHCヘッドや鋳造技術、FRP生産、内装用ウッドアマテリアルといった、ヤマハ周辺のテクノロジーが、結集されることになった。ヤマハの周辺技術を効果的に利用できたことが、短期間による開発を可能にしたと言っていい。

 昭和40年8月。早くも1号車が完成。同年10月には東京モーターショーデビューをはたす。市販への期待が高まり、開発にも拍車がかかった。

 テストコースでの試験ではなく、実戦におけるテストと改良を受け、その間、FIA公認記録会や耐久レース等でも大活躍する。

 そして昭和42年5月、遂に発売開始。238万円という、今の感覚に喩えるならば2000万円級の超高級国産スポーツカー。ほぼ同時に公開された映画「007は二度死ぬ」にも登場した(トヨタのマーケティング活動の一環)こともあり、国産初のスーパースポーツが世界を大いに沸かせた。

 それから、3年半後の昭和45年10月27日。磐田工場において最後の車両に最終検査合格印が捺印され、生産が終わった。短命に終わったのは、広告塔の役割を果たしたという判断に加えて、ビジネス上の問題(赤字覚悟のクルマであった)、とりまく環境の悪化(石油危機など)、といった要因が重なったからだった。

 そんな歴史を反芻しながら、今、現車を目の前にして思うことは、トヨタ2000GTというクルマの功罪について、である。

 「功」については言わずもがなだ。日本車史上に燦然と輝ける星であり、金字塔であるという事実だ。

【画像】絶対的な速さだけがスポーツカーの魅力ではない!トヨタ2000GTを見る!(12枚)

意外と多い救急車のヒヤリハット! その原因とは?

画像ギャラリー

1 2

【NEW】自動車カタログでスペック情報を見る!

新車不足で人気沸騰! 欲しい車を中古車でさがす

最新記事

コメント

本コメント欄は、記事に対して個々人の意見や考えを述べたり、ユーザー同士での健全な意見交換を目的としております。マナーや法令・プライバシーに配慮をしコメントするようにお願いいたします。 なお、不適切な内容や表現であると判断した投稿は削除する場合がございます。

1件のコメント

  1. そもそも持ち込み企画でエンジンまで持ち込み会社。
    レクサスLAFのエンジンもヤマハだから功罪どころか評価のしようがない話。

メーカーからクルマをさがす

国産自動車メーカー

輸入自動車メーカー