億超えフェラーリの御用達ブランドリの今をレポート! 40周年記念の香りのサプライズとは

クラシックフェラーリのスペシャリスト、ブランドリとは

 1980年、エジディオ・ブランドリがモデナに設立したブランドリ社は、フェラーリを中心にヒストリックカーのボディのレストア、そしてヒストリックカーを維持するには欠かせない部品を制作している。

 ブランドリには、世界中からレストアのためにクラシックカーが送られ、クラシックフェラーリの部品のオーダーが数多く寄せられている。いまは「ディーノ246」や「275GTB」のリクエストがよく入るそうだ。これらの部品は、ブランドリでオリジナルの設計図から起こしたものばかりだ。

ブランドリ親子。左が息子のロベルト・ブランドリ、右が父であるエジディオ・ブランドリ
ブランドリ親子。左が息子のロベルト・ブランドリ、右が父であるエジディオ・ブランドリ

 そんなブランドリ社が、2020年に40周年を迎えた。

 オーナーのエジディオはブランドリ社を設立する以前から、“叩き職人”としての長い経験があった。

 1940年に生まれたエジディオは1953年、13歳になったばかりの時にモデナの修理工場に丁稚奉公に出る。そこで力をつけた彼は1963年にスカリエッティ社に弟子入りをする。

 スカリエッティ社代表のセルジョ・スカリエッティはフェラーリのボディ・ビルダーでありエンツォ・フェラーリの友人として常にエンツォに寄りそっていた人物だ。1947年に設立されたフェラーリの数々の名車をエンツォと共にこの世に送り出してきた伝説の叩き職人である。

 スカリエッティ社が手がけたクルマは、「250カリフォルニア」、「250テスタロッサ」、「750モンツァ」、「250SWB」、「275GTB」、「250GTO」、その他、数々の歴史に残るフェラーリばかりだ。

 エジディオが入社した1963年は、ちょうどスカリエッティの工房でフェラーリ250GTOの最終モデルを製作していた時だったという。それから退社するまでスカリエッティの工房で、彼は後世に残るクルマのボディを自らの手で叩き、作り上げていった。

 エジディオのキャリアは250GTOから始まったが、工場には常に事故車や、レースに向けての点検などで、1950年代のクルマが次から次へと入庫していた。そのため、1963年にスカリエッティに入社したエジディオだけれども、1950年代に生産されたクルマも知り尽くしているという訳だ。

 スカリエッティ社がフィアットの傘下になった時に合わせて、エディジオは自らの名を付けたカロッツェリアを設立した。エディジオには「企業のなかでひとつの歯車にはならず、常にカスタマー、そしてクルマと直接向き合える形で丁寧に仕事をしたい」との思いがあった。それが1980年のことだったのである。

1963年からスカリエッティ社で経験を積んだエディジオいまも現役で、クルマと向き合って仕事を続けている
1963年からスカリエッティ社で経験を積んだエディジオいまも現役で、クルマと向き合って仕事を続けている

 それから今日に至るまで、ブランドリはフェラーリの歴史を陰で支えてきた。1984年からは息子のロベルトが工房に入り、時には親子で意見を出し合いながら、毎日クルマと向きあっている。

 現在は3人の職人と共にモデナのブランドリの工場は、40年前と同じように「カンカンカンカン」と鉄の板を叩く音が鳴り響いている。まるでタイムスリップをしたように。

 現在、カロッツェリアの新たな部門としてロベルトが鈑金の技術を生かしたアートワーク デザインを作り、数々のアート作品を製作している。ブランドリだからできるアート作品、今後どんな作品が誕生するか楽しみだ。

 エジディオの80歳の誕生日と共に、カロッツェリア設立40周年というダブルのお祝いが重なったブランドリ社。これからもモデナの職人技術を継承しつつ、世界中に存在するクラシックフェラーリを支えていくことだろう。

【画像】クラシックフェラーリは、こんな場所で生まれ変わっていた!(24枚)

【2024年最新】自動車保険満足度ランキングを見る

画像ギャラリー

1 2

新車不足で人気沸騰! 欲しい車を中古車でさがす ≫

【NEW】自動車カタログでスペック情報を見る!

最新記事

コメント

本コメント欄は、記事に対して個々人の意見や考えを述べたり、ユーザー同士での健全な意見交換を目的としております。マナーや法令・プライバシーに配慮をしコメントするようにお願いいたします。 なお、不適切な内容や表現であると判断した投稿は削除する場合がございます。

メーカーからクルマをさがす

国産自動車メーカー

輸入自動車メーカー