レースでの活躍を目指した、エンツォ肝いりの「288GTO」とは
エンツォ・フェラーリ翁が晩年を迎えていた1980年代前半のこと。彼はその時代のフェラーリ製ストラダーレたちが、自ら規定したはずのコンペティツィオーネ(レーシングカー)由来のセオリーから逸脱してしまっていると考えていた。そして、同時代の最新テクノロジーを駆使しつつも、彼の理想とするフラッグシップ・スーパーカーの開発・生産を、部下たちに命ずることにしたという。
この時代、フェラーリのレゾンデートルたるF1GPは1.5リッター+ターボ時代。当時2度のコンストラクターズ部門チャンピオンに輝いたF1マシン「126C」シリーズが完璧なインスピレーションを与えたことから、エンツォ翁肝いりの新型車には12気筒エンジンではなく、V型8気筒ターボチャージャーのパワートレインが搭載されることになった。

そのパワーユニットに選ばれた「F114B」は、グループC時代の初期にポルシェ「956/962C」を相手に驚異的な速さを見せていた「ランチアLC2」プログラムの一環として開発されたエンジンだった。総排気量2855ccV型8気筒4カムシャフト32バルブのエンジンには、2基のIHI(石川島播磨重工)製ターボチャージャーが組み合わされて、400psのパワーを発揮。300km/hを優に超える最高速度を筆頭に、当時としては驚異的なパフォーマンスをもたらした。
●エンツォ・フェラーリ自ら開発を指示したGTOとは?
一方シャシは、定評ある「308GTB」用から発展したもの。ホイールベースを延長した鋼管スペースフレームに、カーボンファイバーとケブラーのコンポジット製ボディを組み合わせ、コンペティツィオーネに限りなく近いスーパーカーとして開発されることになる。
当初はシンプルに「フェラーリGTO」と命名され、のちに「288GTO」と呼ばれることになる伝説のスーパースポーツの誕生を後押ししたのは、国際自動車連盟(FIA)が1982年から施行したモータースポーツのカテゴリー「グループB」の存在である。
コンペティツィオーネに転用できるスーパースポーツを作り、「GTO」の名のとおりホモロゲートを獲得したいというフェラーリの願いから、FIAがグループB車両に要求する最小生産台数200台を製作し、1985年6月にホモロゲーションを承認されるに至った。
ただ当初FIAが期待していた、スポーツカー耐久レース選手権(WEC)でグループBマシンとグループCマシンを混走させるというアイデアは、フェラーリ以外のコンストラクターが計画に乗ってこなかったことから未遂に終わる。
また、世界ラリー選手権(WRC)に代表されるラリー競技でもすでに4WD車が主流となっていたことから、288GTOがモータースポーツのひのき舞台で活躍するチャンスは失われてしまった。
それでもストラダーレとしての288GTOは、ピニンファリーナの最高傑作のひとつであり、アグレッシブさと美しさ、そしてフェラーリの歴史に対する敬意が見事に融合されたデザインも相まって、デビュー早々に伝説的な存在となってゆく。
開発チームをまとめたニコラ・マテラッツィは「このモデルは、まさに本物のフェラーリの復活を意味する」と語っている。250GTOの成功によって生まれた伝説「GTO」の復活は、この時代におけるフェラーリの意思表示だったのであろう。
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