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「ディーノ」がなぜ「フェラーリだけどフェラーリじゃない」のか? 3分で分かる最も美しい跳ね馬物語【THE CAR】

エンツォの息子アルフレードのアイデアから生まれたV6ユニット

Writer:西川淳
Photographer:神村聖

 はたして、1956年にアルフレードが夭逝することなく、父エンツォの元で働き続けていたならば、フェラーリの現代の姿は、どうなっていただろうか。変わらず、世界最高の自動車ブランドとして君臨していただろうか。

 それとも……。その答は後に譲るとして。

年代によってティーポL、ティーポM、ティーポEと3つに分類され、1974年までに3761台が生産された。そのうちの1274台がGTSとされる
年代によってティーポL、ティーポM、ティーポEと3つに分類され、1974年までに3761台が生産された。そのうちの1274台がGTSとされる

●フェラーリの命運を大きく変えたV6ユニット

 アルフレードは、エンジンパワー信仰の権化のようだった父とは違って、小さなエンジンや小型モデルに期待を寄せる若きエンジニアだった。そんな彼が病床にあってアイデア段階から関わっていたとされるのが、ヴィットリオ・ヤーノによって開発されたV6エンジンである。

 アルフレードは、このエンジンの完成を見ることなく、この世を去った。彼の死を悼んで、それをディーノV6ユニットと呼んだのは、父エンツォの哀しみの深さを物語っているといっていいはずだ。

 1958年、フェラーリ史上初めて、V6エンジンがF1マシンのフロントノーズに収まることになった。

 60年代前半には、このディーノ・ユニットを積んだ、様々なプロトタイプやレーシングカーが造られた。そしてついに、60年代半ばには、初めてディーノエンブレムをノーズに飾るマシンが登場している。1.6リッターのディーノV6を積んだ「166P」だ。

 その後、「206S」シリーズや「206GTベルリネッタスペチアーレ」(コンセプトカー)といったV6縦置きモデルを経て、1967年には待ちに待ったディーノ・ロードカーのプロトタイプが、エンジンを横置きにして発表された。

 そして、1968年。「ディーノ206GT」の生産が、いよいよ始まったのだった。

 アルフレードの死、そしてそこから生まれたディーノV6ユニットを巡る一連のストーリーは、結果的に、その後のフェラーリの運命を大きく変えることになる。

 F2用として開発の終わっていた2リッターV6エンジンの前には、連続する12か月で500機以上を生産する市販エンジンでなければならない、という1967年シーズンのレギュレーションが大きな壁として立ちはだかった。

 フェラーリには当時、そこまでの生産能力もなければ、仮にエンジンを造れたにしても載せるクルマがそもそもなかった。そこで編み出されたウルトラCが、当時、ブランドイメージを上げるべく高級モデルの設定を模索していたフィアットとの連携であった。

 1965年3月。ジョバンニ・アニエッリとエンツォ・フェラーリは、フェラーリ開発のエンジン製造をフィアットに任せ、エンジン供給を受けてオリジナルのミドシップカーを生産する代わりに、フィアットにもディーノエンブレム付きのGTカーを製造販売する権利を与えたのだった。

 それゆえ、フィアット「ディーノ・スパイダー」がすべてのディーノに先駆けて、1966年にデビューする。

 早々にレギュレーションを充たす500機製造を達成すると、フェラーリとフィアットは、V6エンジンの耐久性や信頼性、そして生産性を上げるべく、ブロック素材をアルミニウムからスチールへ、排気量を2リッターから2.4リッターへそれぞれ変更し、しかも今度はフェラーリの経営を支援する目的もあって、モデナ製となった。

 それが1969年のことだった。

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