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悲運のスーパーカー マセラティ「ボーラ」誕生物語 ラグジュアリースポーツの開祖は生誕50周年

ライバルであるフェラーリとランボルギーニとは違うマセラティの戦略とは

 2021年は、自動車史上に冠たる名作、あるいはエンスージアストの記憶に残るクルマたちが、記念すべき節目の年を迎えることになった。

 なかでも1971年にショーデビューし、今年が50周年となったランボルギーニ「カウンタック」は、その復活版誕生のニュースが全世界でセンセーションに巻きおこすなど、間違いなく2021年の自動車界における最高のスターだったといえるだろう。

 しかしその陰で、かつてはライバルだった名門マセラティが同じ1971年に誕生させたミドシップ・スーパーカー「ボーラ」の50周年は、いささか影が薄いかにも感じられる。

 確かに今年、同じマセラティが久方ぶりに登場させたミドシップ「MC20」とのリンクでも、あまり多くを語られることはなかったようだが、その実像は、決して忘れ去られてしまうのが当然の凡作などではあるまい。

 そこで今回VAGUEでは、マセラティ・ボーラの誕生にまつわるストーリーを紐解き、往年の「渋好み」なスーパーカーブーマーたちを魅了した個性派スーパースポーツへのリスペクトの想いを表することにしたい。

  • ボリューム感のある「ボーラ」のノーズ

●名門マセラティ初のミドシップ・スーパーカー

 1960年代には、名作と称される2シーター・スーパースポーツ「ギブリ」を擁して、ランボルギーニ「ミウラ」、そしてフェラーリ「365GTB/4デイトナ」と三つ巴の世界最速争いを繰り広げた老舗マセラティは、当時の作品たちを見れば一目瞭然だが、コンベンショナルな作風を特徴とするコンストラクターだった。

 しかしミドシップ化の機運を察したマセラティは、この時ばかりは負けじとばかりに、「カウンタックLP500」のショーデビューと同じ1971年春のジュネーヴ・ショーにて、ギブリや「インディ」などと同じV型8気筒4カムシャフトエンジンをミドシップに搭載するスーパーカー「ボーラ」を出品することになった。

 ただし、このボーラ・プロジェクトについては、当時のマセラティの親会社であった仏・シトロエン経営陣の指示のもと、すでに1968年ころには開始されていたとする説が有力ともいわれている。

 ともあれ「ティーポ117」という社内コードナンバーを与えられて、ボーラの設計・開発はスタートしたのだが、実はマセラティにとってミドシップは、まったくの初挑戦というわけでもなかった。1963年、従来のフロントエンジン型「バードケージ(ティーポ60/61)」の後継モデルとして製作されたレーシングスポーツ「ティーポ63」では、当時まだ珍しかったミドシップが試作されていたのだ。

 ティーポ63の設計を手掛けたのは、ほかのバードケージと同じ設計者である鬼才ジョアッキーノ・コロンボのあとを継ぐ形で、1954年にマセラティ社のテクニカルディレクターとなったジュリオ・アルフィエーリ技師である。

 弱冠30歳にして名門マセラティの技術責任者という重責に就いたアルフィエーリは、あくまでコンサバ志向なマセラティのセオリーを築いた張本人のひとりだった。

 社主であるオメール・オルシの意向もあって、コスパを度外視してまでもクオリティを重視するかたわらで、新しい技術には安易に飛びつかず、たとえ旧態依然といわれても確実な手法を選ぶのが、マセラティの本分であると確信していたと伝えられている。

 たとえば傑作と呼ばれたギブリでも、エンジンはV8を採用(ライバルはV12だった)。後輪懸架も独立式が多くなっていた時期にリーフ式リジッドとするなど、同時代のフェラーリや新興勢力のランボルギーニと比べると、明らかにコンベンショナルであるのが分かる。

 その代わりに上質さを身上とするクルマ作りが、アルフィエーリのマセラティの常道だった。

 ところが、アルフィエーリが手掛けた初のミドシップ・ストラダーレ「ボーラ」は、基本構成こそ当時のマセラティの定石に極めて忠実だったにもかかわらず、新しい技術的アプローチもおこなわれた意欲作でもあったのだ。

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