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世界にたった1台の「ミウラ」ロードスターの数奇な運命とは?【THE CONCEPT】

ベルトーネの活躍によって実現したコンセプトカー

 第二次大戦前から継続していた「スポーツカー≒オープン」という時代は、1950年から1960年代ごろには終わりを告げつつあったものの、それでも魅力的なスポーツカーが誕生すれば、そのオープン版を求める声が当然のごとく湧きおこった時代の話である。

  • レストアが施されて、オリジナルカラーに戻されたミウラ・ロードスター・コンセプト

 1966年のトリノ・ショーにて、美しいベルトーネ製クーペボディとともに「P400ミウラ」として正式デビューを果たした直後から、この「世界初のスーパーカー」にオープン版を求めるリクエストは、特にオープンスポーツの大市場である北米などから続々と寄せられることになったという。

 P400ミウラのデザインワーク、およびボディ生産を受託したことを契機に、ランボルギーニ社とのコラボを開始させることに成功したトリノの名門カロッツェリア「ベルトーネ」社にとって、ミウラのオープン版を製作するというプロジェクトが、なんとしても関与すべきものと映ったのは、ランボルギーニとの関係をさらに深めるためにも当然のことだろう。

 ところが、ミウラのオープン化計画には大きな障壁が立ちはだかった。もともとミウラは、ランボルギーニ社内若手スタッフたちの課外活動的ワークによって開発されたものを、ベルトーネの当主ヌッチオ・ベルトーネが音頭をとるかたちで生産化にこぎつけたモデルである。いまでは考えられないが、当時はランボルギーニ社のラインナップのなかでは、どちらかといえば異端の存在だった。

 しかも、高性能かつ快適な高級グラントゥーリズモこそが「アウトモビリ・ランボルギーニ」社の追求すべき本分、と考えていた社主フェルッチオ・ランボルギーニは、スパルタンなイメージを持たれやすいオープンモデルそのものにも難色を示していたという。

 そこでヌッチオは、一計を案ずる。ミウラのオープンモデルは、ベルトーネ主導のコンセプトカーとして開発。ワンオフで製作されるに至ったのだ。

 直談判でフェルッチオを説得し、シャシーナンバー「#3498」のP400ミウラを預かり受けたベルトーネは、単にルーフを取り去るだけではない、大規模なモディファイを施すこととした。

 まず、ウインドシールドは傾斜をより強いものにするとともに、車高も30mm低めた。また、リアセクション全体を覆うカウルはまったくの新デザインとされ、標準型ミウラのそれより大きく張り出した形状となる左右エアインテークと、転倒事故の際に乗員を保護するロールバーによって構成されるBピラー、さらにマットブラックにペイントされたガーニッシュが組み合わされることで、スタンダードと同じくファストバックのスタイルをつくりだした。

 一方、エンジンフードの役割を果たしていたルーバーは廃止され、横置きされるV型12気筒エンジンは車外から丸見えという、いかにもコンセプトカー然としたものとなった。

 また、いわゆる「コーダ・トロンカ」スタイルを成すテールエンドは、張り出しを増したBピラーに合わせて、より角ばった意匠とされるとともに、もともと「フィアット850スパイダー」用を流用していたテールのコンビネーションランプも、同じくベルトーネの手による「アルファロメオ1750ベルリーナ」用のより大型のものが組み合わされた。

 こうして新たなボディを与えられ、晴天の空のようなブルー・メタリックにペイントされたコンセプトカーは「ミウラ・ロードスター」と名づけられ、1968年のブリュッセル・ショーのベルトーネ社ブースにてワールドプレミア。大きな反響を得ることになったが、実をいうとショーへの出展の以前に、このワンオフ車両の譲渡先は決定していたのである。

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