5分で分かる、アストンマーティンのモータースポーツの歴史とは

1913年にライオネル・マーティンとロバート・バンフォードがロンドンに小さなワークショップを開設して以来、107年の歴史を紡いできたアストンマーティンが、モータースポーツに参戦することは、アストンマーティンの哲学やアイデンティティと切っても切れない関係にある。そこで、2021年に60年を超える沈黙を破ってF1世界選手権に復帰するアストンマーティンの、華麗なるモータースポーツの歴史を振り返ってみよう。

アストンには、まるでジェームズ・ボンドのようなドライバーいた!

 1946年のベルギー・スポーツカーGPは、最高峰クラスのレースではなかったものの、アストンマーティンのレーシング・ヒストリーを語る上で欠かせない戦いであった。

 戦後間もない時期のモータースポーツは、今日における絶え間ないテクノロジー開発競争と比べると、比較的穏やかな時代だったといえるだろう。とくに、第二次世界大戦終了直後のレーシングマシンは、当然のことながら、その多くのマシンが完全な新設計ではなかったのだ。

●復活の1940年代

1949年、シルバーストーンでの「ジョック」ホースフォール

 戦前に製作されたアストンマーティン「スピード・モデル」も十分に現役として通用したため、1936年型アストンマーティン2.0リッター・スポーツカーが、ブリュッセル近郊のボワ・ドゥ・ラ・カンブルのロードコースで1946年6月16日に開催されたベルギー・スポーツカーGPに参戦したことも驚くには値しない。

 そのうち1台には、アストンマーティン・モータースポーツ史のなかでも異彩を放つドライバー、セントジョン・ラトクリフ・スチュワート・ホースフォール(通称「ジョック」ホースフォール)がステアリングを握っていた。

 裕福な家庭の6人兄弟のひとりとして生を受けたジョックは、幼いころから自動車に興味を示し、1934年に、24歳で自身初のアストンマーティンを購入。株式ブローカーとしても成功していた彼は、すぐにアストンマーティン「ファミリー」の一員となり、開発やテストを通じてブランドを支援することになる。

 彼は、戦時中はMI5で働き、MI5の職員やエージェント、ダブルエージェント、あるいは囚われの身となった敵のスパイを乗せて、MI5の公用車を運転したこともある異色の経歴の持ち主でもあった。彼は極度の近視のうえに乱視も抱えていたにもかかわらず、視力を矯正するために眼鏡をかけることを嫌っていたといわれている。

 さらにジョックは、海軍および空軍施設のセキュリティ・テストにも関わっており、機密情報にも精通していた。彼にとってもっとも「シークレットな」活動は、「オペレーション・ミンスミート(挽肉作戦)」(1943年、枢軸国を欺いて、連合国軍がシチリアに侵入した軍事作戦)において、ドライバーを務めたことである。

 興味深いことにこの極秘任務は、1939年に海軍諜報部門責任者を務めたジョン・ゴッドフレイ少将と彼の個人秘書であったイアン・フレミング少佐が詳細にわたってメモに記した、敵軍欺瞞戦略を基にしたといわれている。

 戦後に開催されたベルギー・スポーツカーGPでは、このレースに参戦したフレイザー・ナッシュ、BMW、アルヴィスといったライバルメーカーを抑えて、ジョックが真っ先にチェッカーを受けることになった。これは、アストンマーティンの「ビンテージ」マシンが記録した、注目すべき勝利であった。

 ジョックのマシンには、1950ccの4気筒OHCエンジンが搭載されていた。最高出力は約125bhp、車両重量約800kgの「アルスター・スタイル」のオープンボディ、2シーター、セパレート・ウィングを備えたこのマシンは、120mph(約186km/h)の最高速度を誇った。

 しかし、ベルギーでの勝利は、ホールフォールにとって最高の栄誉ではなかった。それから3年後、彼は1949年のスパ24時間レースにプライベート参戦し、アストンマーティン・スピード・モデルでクラス2位、総合4位に輝いている。この業績を際立たせているのは、控えドライバーのポール・フレールがいたにもかかわらず、ホールフォールはひとりで24時間を走り切ったことであろう。

 しかし、ホールフォールは、このレースからわずか4週間後、英国のシルバーストーンで開催された1949年BRDCトロフィーでレーシング・アクシデントに見舞われ、この世を去ってしまう。

 アストンマーティン・オーナーやエンスージアストのなかでも群を抜く彼の偉業を記念して、アストン・マーティン・オーナーズ・クラブは、彼の記憶を後世へと残すため、セントジョン・ホースフォール・メモリアル・トロフィーを毎年開催している。

Gallery:【画像】アストンマーティンのレースを貴重な写真で振り返る(15枚)